第26代継体天皇の御陵墓は茨木市にある太田茶臼山古墳(三嶋藍野陵)とされているが、考古学の研究成果により高槻市の今城塚古墳が真の継体陵だと言われている。思ってたんと違う。歴史には時々、こんなことが起きる。本日のケースはどうだろうか。

兵庫県赤穂郡上郡町落地(おろち)に「落地八幡神社」が鎮座する。難読地名の一つだが、落地遺跡が有名なので歴史好きには知られているかもしれない。
神社の北東に位置する落地遺跡は古代山陽道の野磨駅家跡である。神社の南西には中世山陽道の梨ケ原宿遺跡があり、さらに進むと難所として知られた船坂峠が待っている。ここは古代以来、交通の要衝であった。
御祭神は八幡さまだから誉田別命(ホンダワケノミコト)、つまり応神天皇である。ちなみに継体天皇は応神天皇五世の孫と称したが、王朝が交代したと考えられている。今話題の旧宮家養子縁組は天皇と36親等~38親等の隔たりがあるというから、易姓革命と言っていいくらいだ。
境内に由緒を示した石碑があるから読んでみよう。
落地八幡神社由緒
弘安二年(一二七九)夏当地方に大雨あり。里人之を眺むるに、空中龍の昇降するに似たりしかば、恐懼して身心を悩まし、一種奇異の病魔に犯され煩悶せしに、一夜老人夢むらく、吾村は山の里高嶺神社(御祭神牛頭天王)の素戔嗚尊、神代に大蛇を斬り殺し給へる霊魂、今此の地に現れて悩ますものなりと。即ち今より村名を落地(大蛇)に作り、(大蛇の霊魂地に落つるの意か)武勇なる八幡大神を祀り以て信仰すれば里人の病立ち處に平癒すと、翌朝相謀るに、大半皆同じ夢なり。依って神地を今の地に卜し、譽田別命(應神天皇)を斎き奉るに一種の奇病忽ち癒えたり。
慶長十八年に池田輝政本郡を領して規模を修め、金穀を寄せて祭染料を充てたりと。
弘安二年(1279)のこと。近くの高嶺神社の須佐之男命(素戔嗚尊=スサノオ)が退治したオロチの霊魂が住民を苦しめたので、ホンダワケを祀って鎮めたというのだ。
この頃は元寇の真っただ中。弘安二年には服属要求の牒状を持参した元使を博多で斬首している。いよいよ緊張感と不安感が高まっていた。人々を苦しめたのは、そんな時代の空気感だったのだろうか。境内の御神木で町指定文化財の「ムク(椋)」は樹齢約八〇〇年とされ、同じ鎌倉時代に芽生えたことになる。
ところが、玉岡松一郎編著『播磨の伝説』第一法規には、同じオロチでも別の話が記されている。
八岐大蛇
(上郡町落地)昔、船坂村は湖で旅人は舟に乗って渡らなければならなかった。頭が八つ、尾が八つ、背中に苔を生やした大木が生い茂っていた八岐大蛇に悩まされた。素戔嗚尊が退治したのは出雲のことでなくこの地のことである。大蛇(おろち)村といっていたが明治に落地と名を改めた。
なんとスサノオがオロチを退治したのは、出雲ではなく播磨のこの地だったという。記紀に対抗する堂々とした異説だ。どちらが正しいのか。江戸中期の地誌『播磨鑑』には「落地村」と記載されているから、大蛇村云々はオロチ伝説からの想像だろう。
落地とは何か。水の落ち来たる場所なのか、低地という意味なのか。そうであっても魅力的なのは、やはり大蛇の伝説だ。物語と信仰は地域を一つにまとめるアイデンティティなのである。


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