戦国

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安芸守を名乗る山

あの平清盛も任官された安芸守。「松平安芸守」とは広島藩浅野本家の名乗りである。さすがは安芸の太守、中国最大の大藩である。この由緒ある「安芸守」を名乗る山があるという。行ってみよう。浅口市鴨方町益坂(ますさか)と同市金光町地頭下(じとうしも)...
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長船越中が守った城

岩だから窪みがあっても不思議なことではない。しかし昔の人は、これは馬の蹄の痕跡だと見たのである。おそらく地面に残る蹄の跡を見慣れていたからだろう。このブログでは坂上田村麻呂の馬、佐々木盛綱の馬、そして名馬生月の蹄の跡を紹介したことがある。本...
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畝状竪堀と三重堀切

運転支援システムは白線を検知し、それに沿って走ろうとする。私たちも路側帯があれば、その内側を歩こうとする。ラインが車や人を誘導しているのだ。山城を攻めてくる敵もまた同じで、凹部か凸部のどちらか、つまりラインに沿って進もうとし、凹凸を繰り返す...
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満開の桜咲く激戦の城

よく使う天満屋バスステーションで「地頭」という行先のバスを見かける。両備と岡電ばかりの中では珍しい備北バスだ。泣く子はいても近ごろ地頭は見かけない。いったいどこにいるのだろう。鎌倉時代じゃあるまいし…と調べてみると、地頭の手前には「領家」も...
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宮廷歌人が讃えた四国屈指の名城

平安時代の伝説的な猛将・鎌倉権五郎、大正時代に宮中で活躍した歌人・入江為守。まったく関係のないように見えるが、歴史は不思議なもので、本日の城を通してつながっている。三界に暮らす有縁無縁の人々。私たちはどこかで誰かとつながっているのだろう。善...
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ねねの実家が備後で持っていた山城⁉

木下藤吉郎の嫁さんを何と呼ぶか。そんなの常識に思えて、これが意外に難しい。今やってる大河「豊臣兄弟!」では「寧々(ねね)」としている。「真田丸」では「寧(ねい)」、「軍師官兵衛」では「おね」であった。その北政所、高台院ゆかりの山城が尾張では...
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恍として仙境に入るが如し

戦いに敗れた中世山城の城主が生きる道は幾つかある。味方の陣営に退くか、敵方に帰順するか。それとも、出奔して落武者になるか。出家あるいは帰農して敵意を示さない方法もある。おそらく帰農したのであろう、城主の子孫が今も城の周辺に暮らしているケース...
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尼子氏を遠く播磨で偲ぶ

尼子氏は16世紀半ば、晴久の代に最大版図を誇った。出雲を本拠地としながら、遠く播磨へと進出していたのだ。そこまで大きくなっても生き残れないのが戦国の現実。消え失せた戦国大名、尼子氏を偲んで播磨南部の山城を訪ねた。赤穂市高野(こうの)に「尼子...
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播備国境を監視した山城

隠岐へと向かう後鳥羽上皇の遷幸ルートはけっこうな謎で、分からないだけに各地に伝説が生まれているが、私が有力視しているのは「嗚呼、承久の乱800年!」で紹介した備前東部北上ルートである。上皇は播備国境を「才ヶ峠」で越えたという。今は枯葉に埋も...
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四百年を経ても続く主従の絆

傘を刀に見立てて斬り合うように踊る「大島の傘踊り」という盆踊りがある。笠岡市大島地区に伝わり、岡山県から重要無形民俗文化財に指定されている。戦国領主であった細川通董(みちただ)公の百年忌墓前祭に、大島村から参列した遺臣らが踊りを奉納していた...