近世山陽道は西国を貫く主要道であり、その役割は国道2号に引き継がれている。国道1号の東海道が金メダルなら、山陽道は銀メダル、古代であれば金メダルというべきステータスだろう。
大局的にはそうかもしれないが、岡山城下から西に向かう道路では事情が異なる。近世山陽道が国道180号に沿うように北寄りに進み、県道270号清音真金線、国道486号が継承している。これに対して、国道2号はかつて県道162号岡山倉敷線を通っており、倉敷以西は今も県道60号倉敷笠岡線が平行ルートとして存在する。
何が異なるのか。道の名称を羅列してもよく分からない。地図を見れば一目瞭然で、遥照山を代表格とする県南丘陵地帯の南北どちらを通るか、ということだ。都市部である南側を通過するのが国道2号であり、交通量が半端ないため長期間にわたってバイパスが建設されている。この国道2号と目的が近い県道162号、60号が踏襲しているのが、近世の鴨方往来なのである。
岡山県南の交通網発達に金メダル級の貢献した鴨方往来。近世において鴨方への道が重視されたのはどうしてだろうか。さっそく鴨方に向かい、関連史跡を訪れた。

浅口市鴨方町鴨方の黒住教鴨方大教会所に「鴨方藩御用場跡」がある。古い町の風情なら「かもがた町屋公園」がおすすめだが、もう少し先へと進むと、この場所に着く。
ここは御用場という役所で、説明板の絵図によれば、石垣の向こう右奥にかけて建物があった。解説文を読んでみよう。
鴨方藩御用場跡
鴨方藩は、岡山藩の支藩として一六七二年(寛文十二)備中浅口・窪屋・小田三郡の地二万五〇〇〇石を与えられ、新田藩として成立した。初代藩主は池田光政の次子政言である。鴨方藩御用場は、鴨方藩所領支配の現地の拠点(政務の場)であったが、鴨方藩主は岡山城下の天神山(現岡山県立美術館)にある鴨方藩邸で生活し、藩としては簡素なものであった。
池田家文庫の御用所之絵図には、表御門、溜長屋御座敷、吟味場、御囲米御蔵、牢番詰所等の建物が描かれ、屋敷は東西約五六・八メートル、南北約三二・七メートルであることが記されている。現在は、石垣や井戸が当時の面影を残している。幕末には、御用場の北側に陣屋が造営される。
浅口市教育委員会 浅口市文化財保護委員会
この藩は岡山藩の支藩である。名君として知られる池田光政は新田開発を進め、それにより得られた収入で子二人に分知を行った。長男の綱政に家督を継がせ、二男の政言(まさこと)に鴨方、三男の輝録(てるとし)に生坂の領知を与えた。
これが岡山新田藩の成立である。おそらく徳川幕府の御三家のようなものだろう。実際、鴨方池田家からは本家を相続する人物を輩出した。最後の藩主となった池田章政である。徳川慶喜の水戸家と同じ状況だ。
ただ藩主は鴨方にいなかった。岡山城下の天神山にあった鴨方藩邸で暮らしていたのである。今も旧池田信濃守邸跡の巨石庭園が残っている。信濃守は政言の官位である。
鴨方の新田藩が鴨方藩と改称したのが明治元年のこと。大政奉還により従来からの封建的な支配体制は大きく変わろうとしていた。御用場の北側に陣屋が造られたのも関係するだろう。
御用場にしろ陣屋にしろ、市役所か町役場のような行政の拠点である。最後の藩主池田政保は明治二年に本家に続いて版籍奉還し、同四年には廃藩置県を迎えた。
鴨方藩は鴨方県となり、まもなく深津県として統合されるが、「深津県管轄内元生坂県元鴨方県管轄地を当分岡山県に属せしむ」(M4.12.3)との措置があるなど、やはり岡山とのつながりは深かったようだ。役人は鴨方往来を何度も往復したことだろう。

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