靖国神社と安国寺は関係なさそうに見えて、名称の意味は相通じている。国を平安にすること、政治の目的はこれに尽きると言っていいくらいだ。そして、靖国神社は近代の対外戦争、安国寺は南北朝動乱、それぞれの戦没者を慰霊するために建立された。
国分寺に倣って安国寺を全国に建立した足利尊氏は後醍醐天皇と対立したが、天皇の死後にはその供養に尽力している。天龍寺、安国寺を建立し、願経を作成したのである。
心優しい尊氏に敬意を表して、このブログでは出雲安国寺、安芸安国寺、播磨安国寺を紹介した。本日は備前国にある安国寺を訪ねることとしよう。

岡山市東区鉄(くろがね)に「備前の国安国寺跡」がある。(この周辺)とあるから、確たる証拠はないようだ。
備前国分寺が古代山陽道沿いにあるのに対し、備前国分寺は近世山陽道に近い。播磨との国境に近い三石宿から西に向かうのに、山陽本線に沿って進めば古代山陽道、国道2号を進むのが近世山陽道である。本日紹介の場所は近世の藤井宿近くだ。
「一遍上人絵伝」に「備前国藤井といふ所の政所」と藤井の地名が出てくるが、これは安仁神社のある邑久郡藤井村のようだ。いっぽう上道郡藤井村にも、東西に通じる往来が開けていたのではないか。説明板を読んでみよう。
備前国安国寺の由来
足利尊氏は世の中の平安を願って全国に一国一寺一塔を作る計画をたてた。
観応元年(一三五〇)尊氏の側近高師直(こうのもろなお)の家臣である薬師寺公義は自らの居城であった鉄の館を利用して、この地に備前国安国寺を建立した。
開山には高名な霊叟禅師を迎え、守護職赤松氏にも手厚く保護され、寺は栄えた。
しかし、応仁の乱(一四六七~一四七七)後も備前地方は戦乱が続き、明応年間(一四九二~一五〇〇)約百五十年間続いた寺も遂に戦火で焼失した。
平成十五年八月吉日
岡山市鉄町内会
観応元年といえば観応の擾乱。室町幕府はぐだぐだだった。足利直義と高師直が激しく反目し、将軍尊氏は実子直冬に手を焼いていた。この年、尊氏は直冬討伐のために備前に進出する。この時、凶徒退治の祈祷を弘法寺に命じた「足利尊氏御教書」は県指定文化財となっている。説明板の薬師寺公義(きんよし)もこの動きに関係しているだろう。
公義は元可法師として勅撰和歌集に入撰するほどの和歌の名手であった。二十一代集の十八番目「新千載和歌集」巻第十三恋歌三の歌である。
前大納言為定家に題をさくりて歌よみ侍し時寄玉恋(よせたまこい)を
元可法師
いつはりの言の葉ことにをけはこそ涙の露も玉とみゆらめ
新千載和歌集の選者、二条為定邸で歌題を選ぶと「恋心を光る玉に寄せて詠め」を引き当てた。
あの人の優しい言葉。でも、それはみんな嘘。ああ、私の流す涙の粒だけが光り輝く真実なのね。
この美しい歌はどのような状況下で詠まれたのだろうか。安国寺を建立し、国を平らけく安らけく治めようとしたものの、戦乱の中世は後半に入ったばかり。戦火に焼失した安国寺の法灯は今、東の山向こうにある醫光院が受け継いでいるという。
米国とイランが戦闘終結覚書に署名し、ホルムズ海峡が開放されるという。2月末からの戦争で何か良くなったことはあるのだろうか。我が国の平均株価は16日、一時初の7万円を突破したものの、景気のいい話はどこにもない。ホルムズ海峡の安定は、我が国にとって平和の指標と言えるだろう。

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