伝説の成長と夜泣石の流転

先日、ふくやま美術館で「オバケ?展」を観覧した。オバケ?たちは、宮崎、福岡、長岡、七戸を巡回し、福山にやって来た。歴史資料から現代作品までお化けをキーワードに俯瞰し、子どもからサブカルチャー好みの玄人まで呻らせる秀逸な展覧会である。特に気に入ったのは「オバケラップ」。三次を舞台にした『稲生物怪録(いのうもののけろく)』をモチーフとした、思わず踊りだす作品であった。

熱帯夜の本日は時代を超えて愛される魑魅魍魎に敬意を表して、古くから伝わる「夜泣石伝説」の本家本丸を紹介しよう。遠州七不思議の一つである。

掛川市佐夜鹿(さよしか)に「夜泣石」がある。こんな大きな石とは思わなかった。以前に泣いた石「生石のう様」をレポートしたことがあるから、まあ、そのくらいの大きさかなと思っていた。さすが天下の東海道名物はスケールが違う。

この巨石は重さが約三百貫(1125kg)あるそうだ。なぜ測ったのかというと、昭和11年に銀座松坂屋で開催された静岡物産紹介会で展示するため、エレベーターに乗せる必要があったからだという。お礼に松坂屋が奉納した石燈籠が写真左手に写っている。

いったい、どのような由来があるのだろうか。説明板を読んでみよう。

夜泣石の伝説
只今居ります場所は国道一号線沿いですが、これより四~五百メートル山をのぼりますと旧東海道が通って居ります。旧道の頂上にはお観音様をお祀りした久延寺という昔からのお寺があります。
この寺に、或る日の夕方、臨月の身に成った婦人が安産をお祈りして帰る途中、丸い石にもたれて休んで居りますと、突然刀を持った山賊が出て来て婦人を丸い石に切りつけ、ふところにあったお金を取り去っていきました。
婦人は殺されましたが、幸い刀の先が石に当った為、お腹を斬りとおさなかったので赤ちゃんは無事切り口から生まれ、婦人の魂は丸い石にのり移り助けを求めるため泣きました。
山頂のお坊さんは泣き声に気づき山を西の方に下り訪ねてみると道の真ん中の丸い石のかたわらで婦人は殺され赤ちゃんは虫の息で居りました。この有様ではお寺まで赤ちゃんの泣き声が聞こえるはずが無い。泣いたのはこの丸い石に違いない。先ず婦人を始末して赤ちゃんをお寺に連れて帰りました。お乳が無いので早速水飴を作り育てました。
幸い子供は肥立ち良く成長し、音八と名付けられました。日頃、住職さんより生い立ちの事を聞いて居りましたので、大人になったら母親の御魂を休めたいと思って暮らして居りましたところ、お観音様のお告げであるか、刃物の研師に成る様にと夢を見ましたので、十五歳になった音八は西の方に旅立ち大和の国、思知村へ行き、研屋源五郎宅に身を寄せました。幾多の苦労を重ね一人前の研師に成った時、一人の侍が来て一振りの刀を研いで下さいと音八の前に差し出しました。見ると、刀の先に大きな刃こぼれがありましたので「大変名剣ですが・・」と尋ねてみると、侍は思わず知らず我若き頃、遠州の山の中で石に当てた時の刃こぼれある事を語りました。
長い年月、胸にあった思いを語り合い亡き母の御魂を休めたという事です。
旧東海道はあまりにも険しい峠道でしたので明治十三年、日坂から金谷の間、約五キロの日本で始めての有料道路(中山新道)が開通しました。
そして旧道にあった夜泣石も現在の場所に移りました。

説明から分かるように、夜泣石の場所は昔からここではなく、かつて東海道であった旧道にあったのだ。その場所に行ってみよう。

掛川市日坂と八坂の境に「夜泣石跡」がある。天下の東海道もこうして見ると普通の道だ。

広重の浮世絵「日坂」と同じように石の向こうに坂道が続くが、傾斜がまったく異なる。広重は見る人の旅情を誘うようにデフォルメしたのだ。説明板を読んでみよう。

夜泣石跡
妊婦の霊魂が移り泣いたという石(夜泣石)が明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇御東幸のみぎり道脇に寄せられた。
その後明治初年東京で博覧会があり、出品された帰途、現在の位置に移る。

東京へ出品されたのは銀座松坂屋が初めてではなかった。明治の博覧会について調べてみよう。それは明治十四年に上野公園で開かれた第二回内国勧業博覧会である。ただこの時は、本物よりも作り物の夜泣石が人気を博したという。というのも、作り物の中には子どもが入り、泣き声を発したからだ。さらに、帰りは運搬費が枯渇し、元の場所へ戻せなくなってしまった。そして今の場所に落ち着いた。

さらに不思議なことに、夜泣石はもう一つある。島田市方面から旧道の峠道を登って、優しいお坊さんのいる久延寺に行ってみよう。

掛川市佐夜鹿の久延寺の境内に「夜泣石」がある。やはり広重の浮世絵のように丸い石だ。

いったいどちらが本物なのか。説明板を読んでみよう。

伝説 小夜の中山夜泣石
その昔、小夜の中山に住むお石という女が、菊川の里へ働きに行っての帰り中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり、苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り殺して金を奪い逃げ去った。
その時お石は懐妊していたので傷口より子どもが生まれ、お石の魂魄がそばにあった丸石にのりうつり、夜毎に泣いた。里人はおそれ、誰と言うとはなく、その石を「夜泣石」と言った。
傷口から生まれた子どもは音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研にきたおり刃こぼれがあるので聞いたところ、「去る十数年前小夜の中山の丸石の附近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う。
文化元年滝沢馬琴の「石言遺響」より

ここには記されていないが、調べによると本物の夜泣石がかつてあった旧道あたりで、昭和三十年代に見つけられたものだという。それよりも注目したいのは、研師音八と侍(轟業右衛門)とが出会ってからの結末である。

和解と仇討。正反対の結末だが、馬琴が紹介していることからも分かるように、おそらくは昔の人々が好んだのが仇討で、現代的に正しいのが和解ということなのだろう。

この伝説の面白いところは、時代による変化である。遠州の文人西村白烏(はくう)の『煙霞綺談(えんかきだん)』巻之一「無間の鐘付夜啼石」には、次のような証言がある。

又佐夜の中山夜啼乃石といひはやらせしは享保乃中比よりの事なり。其始め佐夜の中山久延寺に近き並木の松に古木ありしを土俗夜なき乃松と呼ふるき道中記にも見へたり。彼孕女を殺害せし跡なりといへり。享保乃中比雷堕て此松枯たり。其近きあたりに丸石といふてむかしより往来の真中にあり。憶ふに事任社は加茂長明紀行にも此中山のうちなるよし見へ侍れば此石社中の神石なれ共兵乱乃節社地を移し替し時に便りあしければそのままに残し置たりと見へたり。去によりて何といふ謂もなく石の形まるきを以て其まゝまる石とのみいひならはせしを夜啼の松枯て後は此石へ夜なき乃名を描(うつ)して浄瑠璃にも作り出せしよりいよ/\世上に夜啼乃名高し。

小夜の中山夜泣石が世間に広まったのは、享保の中頃のことであった。はじめは小夜の中山久延寺近くの並木に古い松の木があって、一般に「夜泣松」と呼ばれていた。これは古い道中記にも記されている。かの妊婦を殺害した場所だと伝えられる。享保の中頃、落雷によってこの松は枯れてしまった。その近くに丸石と言うのが、昔から往来の真ん中にあった。思うに事任(ことのまま)八幡宮は鴨長明の旅歌(※おそらく[名寄]「佐夜の中山の口なる任事と云社にて鴨長明「又も見む吾ねぎ言のまゝならばしばし散らすな木々のもみぢ葉」伴信友『神名帳考証』十二遠江国佐野郡「己等乃麻知神社」より)にも、この中山にあることが記されており、この石は神社において神の依代だったが、兵乱の際に社地を移転した時、都合が悪くそのまま残されたようだ。そういうことで、何となく丸い形の石だから「丸石」と言っていたが、「夜泣松」が枯れてからは、この石に「夜泣」の名を写したところ、浄瑠璃作品(※「佐與中山夜泣石」か?)にもなったので、いよいよ世間で「夜泣」の名は高まった。

もともとあったのは「夜泣松」で、これが枯れた後に丸石が「夜泣石」となったという。このことは『日本伝奇伝説大事典』角川書店の「夜泣松」でも解説されている。小夜の中山の夜泣松は、子どもの夜泣きを治す効果があり、道行く人が削り取ったのでついに枯れてしまった、とのことだ。

その後注目されるようになった「夜泣石」と、これも各地に伝わる「子育て幽霊」の話が元ネタとなって、曲亭馬琴『石言遺響』に結実したのだろう。もちろん馬琴が描いたのは復讐譚である。勧善懲悪を軸に、忠孝に因果応報という近世好みの一大スペクタクルに仕上げている。

久延寺と夜泣石跡の間、掛川市佐夜鹿に「妊婦の墓」がある。

夜泣石伝説に登場する殺害された妊婦「お石」の墓だろうか。説明板を読んでみよう。

妊婦の墓
松の根元で自害した妊婦小石姫(三位良政と月小夜姫との間に生れた子)を葬った所で、墓碑に「往古懐妊女夜泣松三界万霊……旧跡」と刻してあります。

自害した妊婦「小石姫」で、三位良政と月小夜姫の子だという。どうやら高貴な生まれのようだ。3名とも馬琴の『石言遺響』に登場する。三位良政は怪鳥・蛇身鳥退治を命じられ遠州にやって来た都の貴人、月小夜姫は現地で出会った美しい娘、二人の子が小石姫で夜泣石伝説のお石のモデルで、隈高業左衛門に殺害される悲劇に遭う。

怪鳥退治にやって来たのは一条三位上杉憲藤で現地の娘は白菊だとか、小石姫は叶わぬ恋の行く末を悲観して自害したとか、馬琴が元ネタとしたのか作品から派生したのか、様々な語りがあるようだ。

ただ、郷土史の基本文献『掛川志稿』巻四「佐野中山」の「妊婦墓」では「賊の為に殺されたる妊婦を葬し所と云、此妊婦のことは何れの時なるか詳ならず」とある。単純なモノクロの世界が、人の想像力で彩られていく。独り歩きしていくのが伝説の妙味である。

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