長州征伐の失敗が幕府崩壊、明治維新を導いたことは疑いない。ならば、長州藩に対して武力を行使しなければ、幕府は存続し得たのだろうか。傍若無人にトラブルを引き起こす長州藩を放っておけただろうか。
各藩もまた対応に苦慮していた。長州藩の唱える尊王攘夷。尊王は議論以前の絶対条件であり、攘夷は幕府が朝廷に約束した国是であった。まったくの正論であり、異議の余地がない。問題は、これをどのように進めるかだ。
武力行使を厭わないのが長州藩だが、多くの藩は穏健派で現状維持という現実的な立場だった。長州藩の過激な攘夷に同調せず、幕府の長州征伐にも消極的であった。岡山藩はどのように対応しただろうか。

岡山市東区藤井の素戔嗚神社に「新往来」の起点がある。写真は北を向いている。ここ藤井は岡山城下に最も近い宿場町で、神社前を東西に貫くのが近世山陽道(西国街道)である。
長州征伐当時の岡山藩主は池田茂政(もちまさ)。父は徳川斉昭、兄は徳川慶喜という血筋のよさで、尊王攘夷を主張するとともに、公武合体など幕府の政策にも理解を示していた。
問題の長州藩も長井雅楽(うた)の時代は、幕府や朝廷と協調的だった。彼の唱える航海遠略策は、公武合体による強い国づくりと開国による貿易振興を図るものであり、今日から見れば大正解の考え方だった。
しかし、藩内の攘夷派が力を増して雅楽は失脚、下関で外国船を砲撃して攘夷を実行する。その過激さを問題視する会津・薩摩両藩は八月十八日の政変により、京都から長州藩を追放する。これに対する反撃が禁門の変、これに対する幕府からの懲罰が長州征伐であった。
京と長州の間に位置する岡山城下を、様々な思いを抱いた者が通過しただろう。ある者は国の行く末を思い、ある者はいかに報復するかを考えていた。もちろん何事も起きてほしくないと願った者も多かったはずだ。
思いと思いが交錯して無用なトラブルへと発展することは、藩として何とか避けたい。そんな考えから行われたのが山陽道付け替え、新往来の建設である。説明板を読んでみよう。
新往来
幕末ペリーの浦賀来航、尊皇攘夷運動などで、諸国の志士、浪人の往来もはげしくなり、備前藩でも岡山城の警戒を強め、山陽道を通行する人々に神経をとがらせていた。折しも、長州藩の下関砲撃事件を発端に、幕府の開国政策とこれに反対する長州藩の攘夷実行により、幕府は元治元年(1864年)長州征伐を断行した。備前藩では長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通過することを回避するため、一時的に山陽道の岡山城下の通過をやめ、その北方を迂回させた。藩は藤井宿から北に山陽道をつけかえ、宿奥、奥矢津、牟佐、旭川渡りの新往来を建設し、元治元年(1864年)7月25日より諸大名をはじめ、全ての山陽道通行者に新往来を通行させるようにした。
藤井北町町内会・藤井里山の会 平成19年5月設置
藤井宿から北へ向かった新往来は、宿奥には入らず才ノ嵶の手前、藤井地内で県道96号岡山赤穂線に出る。左折して今は宍甘地内となっている奥矢津を通過し、県道81号東岡山御津線にぶつかったら右折して北へ向かい、牟佐の岡山刑務所の南のあたりから旭川の渡しへと続く。渡河後は古代山陽道の福輪寺縄手へと向かったのではないだろうか。
ただ、それほど便利なルートでもないためか、世の中が落ち着いて通行は廃れ、藤井地内の道は山道と化したようだ。平和な世なら他国からの旅人もウェルカムだ。旭川は京橋で渡るほうが旅が楽しくなる。


コメント