日本初の本格木造復元天守

二宮金次郎なら近くの古くからある小学校にいた。薪を背負って『大学』読んでいる勤勉な姿は、混迷の世をひたむきに生きる私たちを勇気付けてくれる。もっとも、ランドセルを背負ってスマホを見ている小学生も同じ姿勢に見えるが、これでいいのだろうか。本日は掛川からのレポートをお届けしよう。

掛川市掛川の掛川城公園に「掛川城」がある。初夏の鮮やかな緑と青空が心地よい。私は大きく息を吸った。

出迎えてくれたのは、「茶のみやきんじろう」くんだ。市の公式キャラクターだという。こういうキャラは地域のアピールポイントが盛り込まれるものであり、茶のみやくんの場合、実に分かりやすい。

掛川は国内屈指のお茶処で、深蒸し煎茶がつとに知られている。そして「茶のみや」という変わった名字は、二宮金次郎に由来するのであろう。手に本を持っているが、背負っているのは茶葉のようだ。

しかし金次郎の生まれは小田原市、亡くなったのは日光市今市地区、どちらも金次郎の顕彰活動が盛んだ。ならば掛川には、どのようなゆかりがあるのだろうか。

金次郎の報徳思想を普及する大日本報徳社が掛川にあるのだ。掛川出身の豪農、岡田佐平治が設立した組織を源流としている。

茶のみやくんに刺激されてついつい語ってしまったが、掛川城には関係ない。城の歴史を説明板に解説してもらおう。

掛川城公園
■掛川城の歴史
掛川城は、文明年間(1469~1486)頃今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。
永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。
天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。
一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守閣をつくりました。
その後、掛川城は、松平家・太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。

東遠江で東海道を押さえる要衝、掛川城。守護大名今川氏は、この城を重臣の朝比奈泰朝に守らせていた。義元没後の今川氏が弱体化するのを察した徳川家康と武田信玄は駿遠両国に攻め入る。狼狽した氏真は駿府城を脱出して掛川城へ逃げ込み、5か月を超える籠城戦を戦うのである。この攻防戦ゆかりの史跡が天守閣前にある。

「霧吹き井戸」である。どのような伝説があるのか、説明板を読んでみよう。

天守丸 霧吹き井戸
天正18年(1590) 山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。 一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。
永禄12年(1569) 徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。 この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。

今川方に同情的な伝説である。おそらく城主の朝比奈氏が地元から信頼されていたのであろう。長期間家康に対峙した朝比奈泰朝の手腕は、もっと高く評価されてもよい。

徳川氏の領有となった掛川城は石川家成、康通が守り、家康の関東移封後には山内一豊が入った。今見る美しい近世城郭の原型は一豊によって整備された。木造復元された天守閣が目の前にある。登ってみよう。

掛川城天守閣
天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守閣がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。
平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。
天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。六間×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。
設計者 宮上茂隆

掛川城天守閣は、日本初の本格木造復元天守として知られている。設計した宮上茂隆さんは、安土城の天守閣復元案も示した有名な建築史家だ。

天守閣の木造復元は名古屋城や広島城で議論が進んでいる。忠実な復元かバリアフリー化するのか、話は簡単にまとまらない。歴史愛好家の趣味の問題ではなく、公共建築物つまり市民の文化財であるからだ。

旧天守閣は嘉永七年(1854)の地震、安政東海地震で倒壊した。11月4日のことである。翌日には安政南海地震が発生するという激甚災害であった。典型的なプレート境界型地震である。これにより嘉永は同月27日で安政と改元されたものの、翌年には安政江戸地震が発生した。

南海地震や南関東直下地震はその後も発生しているが、東海地震はこの安政東海地震以来発生がないため、ひと頃は明日起きても不思議ではない地震として警戒されていた。

掛川城の数少ない遺構の一つに「太皷櫓」がある。説明板を読んでみよう。

太鼓櫓
正保城絵図では、荒和布(あらめ)櫓と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。

大地震後の建物とはいえ藩政期を知る貴重な証人であり、市の指定文化財となっている。さらに貴重なのはこの建物だ。

掛川城二の丸の御殿は「掛川城御殿」として国の重要文化財に指定されている。御殿の遺構は全国的にも珍しく、他には二条城、川越城、高知城にしかない。

掛川城御殿
御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室が連なり、各室は襖によって仕切られています。文久元年(1861)に再建されたものですが、現存する城郭内の御殿としては、京都二条城など全国でも数カ所にしかない貴重なものです。明治2年(1869)の廃城後は、学校、市庁舎などに転用されましたが、昭和47年(1972)から昭和50年の3年間にわたって保存修理され、国の重要文化財に指定されました。

御殿はもと本丸にあったが宝永地震で倒壊し、二の丸で再建したものの安政東海地震で再び倒壊し、再々建されたということだ。掛川城には地震にまつわる話が多い。

美しいのは玄関屋根の起破風(むくりはふ)と蕪懸魚(かぶらげぎょ)である。破風がほんのり丸みを帯びて柔らかな印象を受ける。また、破風の下の装飾が蕪(かぶ、かぶら)の形に見える。中に入らせていただこう。

御書院の掛軸は家老を務めた太田資逢(すけのぶ)が書いたものである。竹城という号で知られている。文字は「虎」の異体字だという。

藩主の太田氏は、山吹の里伝説で知られる太田道灌(資長)を先祖とする名家で、資(すけ)を通字としている。家老で書家の竹城も一族なのであろう。

掛川城主は山内一豊の後、どうなったのか。なんと、松平(久松)家、安藤家、松平(久松)家、朝倉家、青山家、松平(桜井)家、本田家、松平(藤井)家、北条家、井伊家、松平(桜井)家、小笠原家と目まぐるしく変遷し、延享三年(1746)に太田資俊(すけとし)が藩主となってから幕末まで太田家のもとで藩政が安定した。

第5代藩主資始(すけもと)は気骨のある政治家だったようで、水野忠邦、井伊直弼と対立しながら三度も老中を務めた。どのようなポリシーを持っていたのか、調べてみると面白いかもしれない。

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