水のない土地には、立つことができても生活はできない。海を陸化した干拓地の成否は、水の確保にかかっていた。我が家の周辺も江戸時代の干拓地だが、水は旭川から取水する西川用水で確保している。同じ児島湾干拓地の米どころ興除地区は、どのようにしたのだろうか。

岡山市南区妹尾に「汗入(あせり)水道之碑」と刻まれた石碑がある。揮毫は岡山県知事の従三位勲三等大山綱昌である。薩摩藩出身の官僚で、後に貴族院議員を務めた。
「汗入」という地名は、岡山市民には比較的知られている。というのもバスの行先表示で時折見かけるからだが、「四御神」と並ぶ難読地名の一つでもある。
記念碑は大正二年(1913)三月の建立。本碑建設者として「沢所(さわしょ)組合管理者 都窪郡長 藤沼庄平」の名が刻まれている。藤沼は内務官僚として赴任してきた人で、後に東京府知事、警視総監を務める大物である。政治家としては廣田弘毅内閣の内閣書記官長を務め、文化勲章の制定に尽力したという。
また、碑には建設斡旋者として、菅生(すごう)村長、中庄村長、万寿(ます)村長、庄村助役、妹尾町長、興除村長の名もある。どうやら菅生村、中庄村、万寿村、庄村のあたりを沢所というらしい。
記念碑が建てられているのは妹尾町で、興除村はその南に広がる干拓地である。多くの村々が協力して記念碑を建てたことが分かる。どんな事情があったのだろうか、裏面に刻まれた碑文を読んでみよう。
中備都窪郡沢所郷之地低湿而有氾
濫之虞前備児島郡興除村之地新墾
而無灌漑之便文政五年栗坂村之里
正八木次郎有所慨于此鑿水道以通
興除然工営未全両地不猶免潦涸之
憂明治四十二年都窪郡庄村長内田
弥太郎経営加工疎通得全嗚呼二人
者之功績実大矣茲記所其由来勒之
于石以伝後昆云爾
備中都窪郡の沢所(さわしょ)地区(湛井十二箇郷の下庄、大内田から八箇郷の栗坂、徳芳、中庄、万寿にかけての地域)は低湿地で氾濫の恐れがあった。備前児島郡の興除村は新しい干拓地で灌漑施設がなかった。文政五年(1822)栗坂村の庄屋八木次郎は思うところがあり、ここに用水路を開削し興除へ水を通じさせた。しかしながら、工事が完成したとはいえず、沢所の冠水、興除の水不足という両地域の心配もなお解決していない。明治四十二年(1909)都窪郡庄村の村長内田弥太郎は改めて調査し工事を加え通水を完成させた。嗚呼、二人の功績は実に大きい。ここにその由来を記して石に刻み、後世に伝えるものである。
沢所地区は、ざっくり言えば早島丘陵北側の山陽本線沿いの地域で、水捌けの悪さに苦慮していた。悪吐水川として六間川が開削されていたものの、排水先の足守川が天井川のため水が滞留することがたびたびあった。
いっぽう興除地区の干拓は新たな水利権が得られず、灌漑の目途が立っていなかった。そこで、沢所地区からの排水を興除地区の灌漑に活用する、という一石二鳥の案が考え出されたのである。
沢所地区の余水が流れる東六間川から興除地区に向けて用水路が開削されることとなったが、これに立ちはだかるのが妹尾北部の丘陵地であった。文政期の掘削工事でいったん完成したが、不十分だったため明治末に大改修工事が実施された。これを記念したのが「汗入水道之碑」である。大変な難工事だったことが「汗入」の由来だそうだ。
ただ、伯耆国にも汗入(あせり)という郡があった。のちに西伯郡の一部となる。こちらの汗入の由来は、『伯耆民談記』に次のように記されている。
傳説に曰く、帝の御時諸國より、内裏へ年貢を上るに、當國よりも諸人同しく年貢を皇都に捧く、時に當郡或る里の女、父年老たればとて、代りて其役を勤めて都に上りたり、然るに此女、容貌殊にすぐれて美しく、此の事叡聞に達し、遂に女御に召し出され、以後此の村郡の夫役を免されたりと、此の時かの女喜ひて一首の和歌を詠す、歌中『汗を入る』云々の言葉ありしによりて、後世に至りて郡名を汗入と稱すとかや
帝は光仁帝。孝行娘のシンデレラ物語である。娘の詠んだ歌の詳細は分からない。

用水の法面には、文政期の工事を描いた絵と次のような説明板が設置されている。
汗入水道掘削の賦
興除用水路は、江戸時代末の文政6年(1826)に竣工した興除新田840ヘクタールの用水を確保するため、湛井堰を水源とし取水する十二ヶ郷用水東六間川末流を、地区内に導く水路として文政年間に作られたものである。この汗入峠の岩質は固く、工事は難航し、岩石を火熱してようやくこれを割り取り、水路を貫通させた。
明治時代に入り、藤田組は、新たに干拓する藤田農場の用水を円滑に確保するため、河床の掘り下げを施工した。この時も岩盤が固く難工事となったが、明治42年にようやく完成し、藤田農場の重要水源の一つともなった。
この用水路も、度々の補修にもかかわらず老朽化が進んだため、農林水産省直轄の児島湾周辺農業水利事業の一環として、全面改修を行ったものである。
先人の苦労に思いを馳せ、この水路により地域がますます豊かに発展することを祈念します。
平成9年6月 中国四国農政局 児島湾周辺土地改良建設事務所
文政6年は1823年である。さらに詳しい説明板が岡山県道151号妹尾吉備線沿いに設置されている。
興除用水路(東用水路)
興除用水路の歴史と汗入(あせり)水道の碑
この興除用水路は、倉敷代官大草太郎右馬が興除新田を開懇するため、湛井十二箇郷用水とその下流の八箇郷用水の排水を、沢所(現在の倉敷市平田・中庄・鳥羽・栗坂・下庄付近)より引水し新田に送るために計画されました。当時は備中との領土争いや、水の使用権をめぐる利害関係が複雑でなかなか実現にいたりませんでしたが、栗坂村(現在の倉敷市下庄)の庄屋八木次郎と大内田村(現在の岡山市大内田)の庄屋金右衛門の働きかけがあって、文政五年(一八二二)から水路の開削工事が始まり、文政七年(一八二四)に完成しました。
六間川の末流に泉水樋門を設け、妹尾崎村・山田村を経て妹尾村汗入の峠(現在の岡山市妹尾汗入)を掘り抜きましたが、その峠は固い岩盤の丘陵地で、工事での最大の難所でした。そのことから汗入川と命名されたと言われていますが、農民たちが汗と泥にまみれて完成させたところからつけられたとも言われています。
しかし、当時工法が未熟なうちに完成したものであり、興除地区には充分な水量が届かず、上流の地区ではしばしば氾濫しました。そのため、庄村の村長であった内田弥太郎が、水路の入念な調査を行なった結果、妹尾町汗入地内に、いくつかの欠陥があることに気付きました。これをもとに再度改修が行なわれ、明治四十二年(一九〇九)に工事が完了し、ここに名実共に興除用水(総延長千八百三十四間「三.三三km」)が完成しました。この完成を記念して、両者の功績を讃える「汗入水道之碑」が、大正二年三月に建立されています。(ここより北北東一〇〇m先)
また、現在の興除用水路は昭和六十一年度~平成十五年度に国営児島湾周辺農業水利事業(事業主体:中国四国農政局山陽東部土地改良建設事務所)において改修されたものです。
設置者 岡山市・高梁川用水土地改良区
開懇は開墾である。大草太郎右馬(たろうめ)は名を政郷(まささと)といい、文政元年から倉敷代官を務めた。興除新田の干拓では岡山藩との交渉に尽力した。
二つの説明板にあるとおり、昭和末から平成半ばにかけても大改修が実施され、現在の姿になった。水面近くの遊歩道まで下りると、三度の大工事を経た深さが実感できる。
蛇口をひねれば何時でも水が出るし、田植えの時季には用水路から田んぼに滔々と水が流れ込んでいく。この当たり前が当たり前でなかった事実を「汗入水道之碑」が教えてくれる。先人の苦労と努力に思いを馳せ、ここに改めて感謝の誠を捧げたい。


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