現代の一般人にとって血筋など何の関係もないと思ったら、伏見宮貞成親王の血筋が注目されている。長男は天皇家、二男は皇族と養子縁組が可能な旧皇族11宮家につながる。
源氏も平氏も血筋は天皇家から分かれており、武家の多くは自らの祖先を源氏平氏に求めた。貴種の流れを汲むというのは、単なる自己満足ではなく、支配権力の正当性を証明するという実利があった。


広島県神石郡神石高原町小畠(こばたけ)に「固屋(こや)城跡」がある。頂部は石垣で補強され、尾根筋は堀切で遮断されている。
城跡からは小畠の中心部を一望できる。

指呼の間に位置する九鬼城は、固屋城と関係が深い。いったいどのような武士が居城していたのか。説明板を読んでみよう。
神石高原町指定文化財
固屋城跡
昭和五十一(一九七六)年五月一日指定
元弘の変(一三三一)から諸国の士の多くは、山城を築いて参戦した。
固屋城は、その頃の中世山城の典型的なものである。当時、馬屋原(うまやはら)氏は一族の隆運発展を計り、固屋城を築造した。
その後、天正年間(一五八二)の山城廃止令によって廃城となる。
標高六四〇m。大規模城館遺跡である。
神石高原町教育委員会
平成二十九年三月設置
城主は馬屋原氏だと分かった。解せないのは「山城廃止令」である。相方城跡でもそのような説明があったが、毛利領独自の事情があったのか。神石高原町が作成した大きな説明板があるので読んでみよう。
固屋城跡由来
海抜六四三米の峻嶮な雄姿を誇る固屋城は、中世の典型的な山城跡の風格を備えている。本丸、二ノ丸、三ノ丸に出丸、烽台が削平された頂上に築かれ、本丸から志麻里ノ庄(小畠・上・光信・光末・常光・亀石)を一望に収めることができる。宮谷川の渓流は自然の濠として活かされ北西面は断崖絶壁、東北面は尾根づたいに退くに容易である。東と南面は谷をなし空壕りの役目をなしている。
南麓の平地(中学校々庭附近)は下屋敷や兵糧兵馬の集合集積地などに使われたと考えられ現在のつつじが丘公園の台地は最初の固屋跡で固屋城が築かれたのちは出城として使われたものとおもえる。
城主馬屋原左衛門太夫光忠は清和天皇(八五八~八七五年)の後胤(源氏)八幡太郎義家の弟義綱より十七世にあたる。
もと上総の国(千葉県)馬屋原ノ庄にあったが故あって備後の国に流され同姓の上村有井城主馬屋原氏に預けられ、その庇護のもとに志麻里ノ庄の小畠に固屋をつくり住んだのが始まりといわれる。
元享三年(一、三二三年)後醍醐天皇は鎌倉(北条氏)幕府討伐のため日野俊墓を密かに西国に行脚させた頃より豪族は戦乱の兆しを感じ山城の建築にかかった固屋の光忠の嫡子秀広も正中年間(一、三二四年)有井城の許を受けて固屋城を築いた。
元弘元年(一、三三二年)河内ノ国楠正成などに呼応して北条討伐に旗上げした備後ノ国宮内櫻山慈俊は北条の輩下を討つため嫡子平太郎盛重を総大将として御殿山城主椙原高平等総勢五千騎をもって神石郡第一の豪雄神石郡執行職(志麻里ノ庄地頭職)亀石城主岡田孫八郎員盛を攻め破り、その勢いで固屋城、有井城を攻めた。
当時固屋城主成宗(秀広の子)は有井城主と共に京都の六波羅に招かれており急を聞いて直ちに帰城したが北条氏にそむいて朝臣櫻山盛重の輩下となり忠勤に励んだといわれる。この元弘の乱より一七〇~一八〇年間戦国時代は続き永正六年(一、五〇七年)馬屋原但馬守正国が九鬼城を築くまで固屋城は続いたと思われる。
神石高原町
源氏の子孫である馬屋原光忠が上総から備後へ流され、同族の上村有井城主馬屋原氏に預けられた。光忠はつつじが丘公園の台地に館を築き、子の秀弘が背後の山に固屋城を築いた。秀弘の子成宗は桜山茲俊の子盛重の配下となって忠勤に励んだ。ただし桜山茲俊は『太平記』に登場するのみで、出自や一族など確かなことは不明である。
説明は南北朝時代の争いが中心で、戦国時代の動向がほとんどない。しかも永正六年(1509が正しい)に馬屋原正国が九鬼城を築くまで固屋城が続いたということは、その時に廃城となったのか。
それに「日野俊墓」という名はないだろう。三和(さんわ)町時代に作成された説明板もあるので読んでみよう。こちらは「俊基」と正しく表記されている。日野俊基は元弘の乱で処刑された公家だが、正中の変に先立つ西国密行は本当にあったのか。
古屋城跡由来
海技六四三米の峻嶮な雄姿を誇る古屋城跡は、中世の典型的な山城の風格を備えている。
本丸、二の丸、三の丸に出丸、烽台が削平された頂上に築かれ、本丸から志麻里ノ庄(小畠・上・光信・光未・常光・亀石)を一望に収めることができる。
宮谷川の渓流は自然の濠として活され北西面は断崖絶壁、東北面は尾根づたいに退くに容易である。東と南面は谷をなし空壕りの役目をなしている。
南麓の平地(中学校々庭附近)は下屋敷や兵糧兵馬の集合集積地などに使はれたと考えられ現在のつつじが丘公園の台地は最初の固屋跡で古屋城が築かれたのちは出城として使われたものと思える。
城主馬屋原左衛門太夫光忠は清和天皇(八五八~八七五年)の後胤(源氏)八幡太郎義家の弟義綱より十七世にあたる。
もと上総の国(千葉県)馬屋原ノ庄にあったが故あって備後の国に流され同姓の上村有井城主馬屋原氏に預けられ、その庇護のもとに志麻里ノ庄の小畠に固屋をつくり住んだのが始まりといわれる。
元享三年(一、三二三年)後醍醐天皇は鎌倉(北条氏)幕府討伐のため日野俊基を密かに西国に行脚させた頃より豪族は戦乱の兆しを感じ山城の造築にかかった。固屋の光忠の嫡子秀広も正中年間(一、三二四年)有井城主の許を受けて古屋城を築いた。
元弘元年(一、三三二年)河内ノ国楠正成などに呼応して北条討伐に旗上げした備後国宮内櫻山慈俊は北条の輩下を討つため嫡子平太郎盛重を総大将として御殿山城主椙原高平等総勢五千騎をもって神石郡第一の豪雄神石郡執行職(志麻里ノ庄地頭職)亀石城主岡田孫八郎員盛を攻め破り、その勢いで古屋城、有井城を攻めた。
当時古屋城主成宗(秀広の子)は有井城主と共に京都の六波羅に招かれており急を聞いて直ちに帰城したが北条氏にそむいて朝臣櫻山盛重の輩下となり忠勤に励んだといわれる。
この元弘の乱より一七〇~一八〇年間戦国時代は続き永正六年(一、五〇七年)馬屋原但馬守正国が九鬼城を築くまで古屋城は続いたと思われる。
三和町
戦国時代における馬屋原氏の動向を求めて国立国会図書館デジタルコレクションを検索すると、備後叢書所収『芸備風土記増補』神石郡の項に、次のような記述が見つかった。
小畑村九鬼山の城跡の項の次に左の項を加へる。
一、馬屋原平左衛門春宗(貞和貞治の頃)備中水越の庄有井城に住し、尊氏将軍より備後国志摩利の庄を賜はり領す、夫より蔵人丞忠宗(応永頃)、備前守宗興(永享文安頃)を経て、蔵人丞宗正(備中守共)義政将軍に仕へ、長禄三年己卯備後国神石郡の地頭職を給り、志摩利庄上村に居城す、宗正の弟四郎兵衛成宗は小畠村固屋城に住す、宗正の子備前守春宗(文明明応の頃)は大内家旗下となる、中務少輔治盛は、大矢村に居城す、春宗の子但馬守正国は永正年中小畠村九鬼山城に移る、其後暫く尼子に従ふ、正国の子蔵人允宗治又大内に属す、毛利元就卿品治郡新市宮の城を攻められし時従軍し、勝戸山、雨木、安井所々にて軍功あり。尼子之を憤り、尼子刑部大輔を将として天文六年丁酉三月備後国に打入り、九鬼山城並に固屋城を攻む、宗治小勢にて叶はす、両城とも夜に紛れて退城し大矢城に入る。然るに如何なる故にや尼子勢雲州へ引退きけるにより、又九鬼山城に帰る。御調郡丸門田村上里丹波の三男仁兵衛を但馬守正国の子となし、其の引越のとき九鬼山落城す、依て仁兵衛は油木村へ引籠り郷士となると云ふ。夫より左衛門大夫正成、備中守元正を経て備前守春時にいたり毛利氏に従ひ、備中合戦其外九州合戦に出軍す、朝鮮陣の時は吉川の手に属す。慶長五年庚子九鬼山を退城し、芦田郡府中村に閑居す。大阪陣のとき従軍し、落城の後ち又府中に帰り病死す。浪人の後ち名を重春と改め、其子采女正重頼、父と共に府中に住す、後ち元和の末品治郡向永谷村へ移住す。弟数馬は慶長年中毛利家長門へ下向のとき供奉せしとぞ。
これによれば、天文6年に尼子氏が備後に攻め込み、九鬼城も固屋城も陥落したが、その後尼子氏は撤退したため城を回復できたという。備後を舞台に尼子氏が大内・毛利氏と争ったのは確かだが、時期は天文21~22年が妥当である。この時、馬屋原氏は大内・毛利勢の最前線で尼子氏と戦った。
先の説明板にあるように、固屋城を築いた馬屋原光忠は源義家の弟義綱より十七世の後胤で、上総馬屋原から備後志摩利庄にやってきたという。これとは別に平氏の子孫を名乗る馬屋原氏もいて、保元の乱で処刑された平忠正の末子正友が源頼朝から備中水越馬屋原を与えられ、五世の孫である貞宗が備後志摩利庄やってきて有井城を本拠とした。子孫は後に九鬼城に本拠を移した。
源姓馬屋原氏は固屋城を、平姓馬屋原氏は有井・九鬼城をそれぞれ本拠としたが、特に対立していたわけではなく、ともに毛利氏の配下として活躍している。上記引用には多くの名前が登場するが、確かな資料での確認は難しいようだ。
備陽史探訪の会『備後の山城50選』の記述によれば、もとは同じ一族で固屋城が嫡流、有井・九鬼城が庶流だったと考えられるが、庶流家が毛利一族との結びつきを強め、嫡流家を凌ぐ実力を付けた。
毛利元就の弟相応元綱は後継者争いで粛清されたが、その子元範は連座を免れた。元範の子少輔五郎(元信)が馬屋原氏(庶流)を継ぎ、永禄十一年(1568)二月七日に備後志摩利庄を与えられたとの記録が残る。子孫は長州藩士として毛利家に永く仕えた。
おそらくは戦国動乱期の志摩利庄において実力で台頭した国人領主だったのだろう。貴種の流れを汲むとして支配を正当化するため、源氏や平氏とのつながりを創作したと考えられる。あの家康公だって藤原姓を名乗って三河守となり、源姓を名乗って征夷大将軍及び源氏長者を手に入れたのである。貴種のキラキラにみんな憧れるのだ。

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