題目なり念仏なり一心に唱えていると無我の境地になり、我に返った時にすっきりした心地となっている。邪念が吹き飛んだのだ。こういうのを宗教的カタルシスというのか。
念仏、仏を念ずる方法は大きく二つあり、すなわち観想と称名である。宗教は心の持ちようだから、仏のお姿をひたすらに想って心を整えることだってできるだろう。しかし、私のような凡人は様々な雑念が生じてうまくいかない。
やはり法華経や阿弥陀仏への帰依を繰り返し言葉にすることで、意識がそこに向かう。思いを言葉にすることで、その原動力が湧くのである。言葉には魂があるというが、確かに私たちを突き動かすのはいつも言葉であった。本日は称名念仏の先駆者を訪ねて、加古川からのレポートである。

加古川市野口町野口の念仏山教信寺は「教信寺境内」として市の史跡に指定されている。
寺院の建物ではなく敷地が文化財指定されるということは、地域の歴史との関わりが高く評価されているのだろう。門前の説明板が二つあるので読んでみよう。
官兵衛の妻光(てる)ゆかりの地 教信寺(野口城跡)
天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。平安時代前期の僧、沙弥教信がこの野口に庵をつくりました。念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが教信寺で、境内の左手奥に教信上人廟があり、春には、満開の桜が境内を彩ります。また羽柴秀吉の播磨攻めの時、寺の東側にあった野口城では、黒田官兵衛が指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦いましたが、奮戦やむなく落城しました。野口城の位置については、近世の山陽道の北側にあった説と南側にあった説があります。
加古川市
「官兵衛の妻光ゆかりの地」とあるが、官兵衛の妻が志方城主・櫛橋氏の出身であり、志方城跡が加古川市内にあることにちなんでいる。大河『軍師官兵衛』放映に伴う観光キャンペーンだと思われる。
教信寺に光が直接関係しているのではなく、夫の官兵衛が指揮した野口城攻めで寺も焼け落ちたという歴史があるということだろう。教信寺を最も簡潔に紹介しているのがもう一つの説明板である。
わがまち加古川70選
No.8 教信寺
春には満開の桜が閑静な境内を彩り、息をのむほど美しい光景が広がる天台宗の寺です。一遍や親鸞にも先達として仰がれた、平安時代前期の僧・沙弥教信の庵跡に建てられました。境内の開山堂には教信の頭部のみの像が本尊として祭られており、康正2(1456)年の修理銘が確認されています。
加古川市
一遍や親鸞という高僧に敬慕された沙弥教信の庵跡だという。境内が史跡指定される理由はここにある。上人の詳しい事績は、境内の説明板に詳述されている。
史跡教信寺と沙弥教信
教信寺は、平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられた寺院です。
教信上人は天応元年(781)奈良に生まれ、興福寺で学んだ後、16歳の時に同寺を出て諸国を行脚し、40年余りの後、賀古の駅にたどり着き庵を結びました。加古川での教信の活動は、ひたすらに念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをするというもので、東は明石から西は阿弥陀宿(現高砂市阿弥陀町)まで荷物を運んだと言います。また、教信寺の南に広がる駅ケ池も教信が地元の人々と掘った物だと言われています。
貞観8年(866)、自らの死期を悟った教信は、妻と子に遺骸は庵の側に捨てて鳥獣に施してほしいと言い残して亡くなりました。同じ時摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市)の僧勝如の夢に教信が現れ、自らの死を告げました。不思議に思った勝如が弟子を加古川へ走らせると、そこには頭部だけがきれいに残った教信の遺骸がありました。これが、現在教信寺伝わる教信頭部像だと言われています。
その後、清和天皇(850~880)が教信の徳をしのんでこの地に伽藍を建てて観念寺とし、さらに崇徳天皇が大治元年(1126)に念仏山教信寺と改めたとされています。天正6年(1578)秀吉の三木城攻めにともない野口城が攻略され、教信寺もすべて焼かれてしまいましたが、諸尊は僧らの手によって焼失を免れ、元和年間(1615~1623)に再興されました。
教信は一遍や親鸞にも先達として仰がれ、とくに一遍は諸国を巡るたびの途中、教信寺で1泊して念仏踊りを興行し、これが現在の播州音頭の起源であると言われています。
平成15年5月 加古川市文化財保護協会
この地に教信が結んだ庵について『播磨鑑』は、「其庵経像を安置せすたゝ西壁を穿ち想を楽邦に送れり」と紹介している。仏像を置かず、西壁に開けた穴から夕陽を拝み、思いを西方浄土に寄せたというのだ。
装飾や執着を捨て本当に大切なものは何かと問い続ける。そのようにしてたどり着いたのが、称名念仏という信仰であり、妻帯して民衆と同じ目線で生活するという生き方であった。荷物を運んだりため池を掘ったりと、僧でもなく俗人でもない実践的な活動家である。
こうした捨てる生き方に共感したのが一遍聖人であり、非僧非俗の実践に学んだ親鸞聖人は「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり」と自らの手本としたのである。
また勝尾寺の勝如は、寛和年間(985~987)成立の慶滋保胤『日本往生極楽記』「二十二住僧勝如」、12世紀初め成立の『今昔物語集』巻十五「播磨国賀古駅教信往生語第廿六」に登場する。
賀古の庵で教信の妻からその生き様を聞いた弟子は勝如に報告した。感銘を受けた勝如は「我無言語不如教信念仏。故往詣聚落自他念仏。」(私は言葉を発しない行を実践していたが、教信の念仏に及ぶものはない。ゆえに民衆の暮らしの中に入り、皆で念仏を実践しようと思う。)と述べたと、『日本往生極楽記』は伝える。
また『今昔物語集』は、「弥ヨ心ヲ至シテ日夜ニ念仏ヲ唱ヘテ怠ル事无シ」と称名念仏を実践し、見事に往生を遂げたと伝える。
教信の遺骸のうち頭部だけが残ったと伝えるのは、康和五年(1103)成立の永観『往生拾因(おうじょうじゅういん)』である。
稍(やや)彼の賀古の駅の北を見れば小廬有り。其の廬の上に当て鴟烏(ていう)集り翔る漸く近き寄り見れば群狗競て死人を食ふ。傍に大石の上に新なる髑髏有り。容顔損せず眼口咲(え)めるに似たり。香気薫馥(こうきくんぷく)す。
賀古駅の北にある教信の庵を訪ねてみれば、庵の上にトビやカラスが飛び交っている。近くに寄ってみれば、犬が群がり死体を食いあさっている。傍らの大きな石の上に真新しい首がある。顔は傷むことなく微笑んでいるようで、香気さえ漂っていた。

この頭部を祀るのが本堂左手にある開山堂である。その奥には沙弥教信の墓と伝えられる美しい五輪塔がある。説明板を読んでみよう。
県指定文化財 石造五輪塔
指定年月日 昭和51年3月23日
所有者・管理者 教信寺
沙弥教信の墓塔と伝えられ、廟所内に東面して建つ。花崗岩製、総高2.08 メートル。
請花・笠・台石の一部が少々欠けているのは惜しいが、全体的に各部の比例もよく整い、容姿も堂々とした風格をもっている。
水輪の正面には種子キリークを刻み、その手法は薬研彫りで古調を帯びている。
各部の形式、種子の彫法などから推すと、鎌倉末期のものとみてよい。元亨3年(1323)湛阿が勧進して、教信廟をつくったと伝えるから、その頃のものであろう。
当地方におけるこの時期の秀れた石造遺品として貴重な資料である。
平成2年11月 兵庫県教育委員会(令和元年6月 加古川市教育委員会 修補)
教信廟を造った湛阿は一遍の弟子。師の思いを受け継いで教信寺の整備に尽力した。こうして境内を探訪すれば、念仏による強い信仰や清貧を重んじる生き方を学ぶことができる。そこには宗教史に名を残す先達の姿も垣間見える。沙弥教信の拝んだ夕日が今日もお寺を秋色に染めている。


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