播州一の名城なら姫路城で異論はないだろう。播磨一国どころか、日本が誇る国宝にして世界文化遺産。姫路空襲にも焼け残った奇跡の天守閣である。続く世界遺産を目指しているのは彦根城。姫路城天守閣に比べ半分の高さながら、破風の数(18)は一つ多くて日本一だそうだ。
本日は秀吉が姫路城に入る以前に「播州一の名城」と謳われた城を訪ねたレポートである。

加古川市野口町野口に「野口城跡」がある。
説明板がなければ何ひとつ気付けなかっただろう。いったいどのような構えだったのか、説明板を読んでみよう。
野口城跡
野口城は野口段丘の先端部に位置する、長さ43間(約83m)横21間(約42m)の丘城であったと伝えられています。
天正6年(1578)4月、秀吉の三木城攻めに際して最初に攻められたのがこの城で、城主の長井四郎左衛門長重以下の精兵がこれに対峙しました。野口城は四方を沼田に囲まれた要害でしたが、秀吉は数万荷分の麦や草木でこれを埋め立て、3日3晩攻め立てたため、ついに降参したと言われています。
なお、この時、近くの教信寺も兵火にかかって全焼していますが、同寺の僧兵不動坊海長・経蔵坊春盛などが城方に加わり、目覚しい働きをしたと伝えられています。
平成14年11月 加古川市教育委員会
段丘の先端部に位置する丘城だったという。この場にいてはよく分からないが、西国街道を西へと向かうと加古川の沖積平野に下りていく。おそらく見通しも利いただろう。秀吉が三木城攻めで最初に狙った理由はここにある。西国街道を押さえる要衝に位置しており、毛利の援軍が入るのを阻止せねばならなかったのだ。
ところが、教信寺で見た説明板に気になることが書いてあった。「野口城の位置については、近世の山陽道の北側にあった説と南側にあった説があります。」というのだ。こちらは南側に位置する。北側も探してみよう。

「正一位光慧(こうけい)大明神」という稲荷神社に「野口城址」の説明が掲げられている。
背後の高まりは土塁だと言われている。説明を読んでみよう。
野口城址
野口城長四十三間横二十一間 野口庄在寺家村 四方沼田要害ノ城 今ハ田地ト成 村ヨリ半丁北ノ方総廻リ竹藪外ニ堀構 城主ハ長井四郎左衛門知行三千石 三木別所長治ノ幕下トナリ 太守別所長治羽柴秀吉ト確執二及ヒ籠城シ玉フ 故ニ幕下ノ小城思ヒ思ヒニ楯籠ル 秀吉ノ大勢三木ヲ攻ントキ幕下ノ軍兵後口ヨリ囲ミ打破ラント企ケル 斯テ秀吉ハ近国ヲ随ヘ書写ニ返リ玉ヒケレハ 明ル天正六年三木別所亡サンカタメ勢ヲ集メ先幕下小城ヲ攻取ント 同年四月一旦坂元フ進発シテ野口ノ城二押寄鬨ヲドット揚ケレハ 長井モ兼テ覚悟ノ事ナレハ一族郎等切テ出一命ヲ不惜散々ニ戦ヒニケリ サレトモ寄手ノ大勢荒手ヲ入替透間ナク無二無三ニ攻ケレハ城ノ兵百余騎打レケレハ 今ハ長井モ為方ナク冑ヲヌキ郎等ニ持セ降人ニ出ケル 同年三日終ニ落城シテケリ
少々読みにくいが、これは代表的地誌『播磨鑑』からの引用である。秀吉との確執によって三木城に籠城した別所長治。決して先の読めない武将ではない。当時、毛利氏は足利義昭を庇護し、石山本願寺を支援して信長最大の敵となっていた。ここで播磨の国衆が毛利方に付けば一気に形勢を有利にできる。
そうならなかったのは秀吉の素早い動きだった。三木城を孤立させるべく支城の各個撃破にかかったのである。その第一弾が野口城であった。戦いの模様を軍記『別所記』野口合戦で読んでみよう。
四月三日早天に長井四郎左門楯籠る野口城へ押寄る。此城は播州一の名城にて、四方沼深して駈引自在ならざるを、秀吉下知して、近辺の樹木を伐倒して、沼へ打込々々、平地にして先手咄(ドッ)と鬨を発して、塀下迄攻蒐る所を、城内より弓鉄砲、爰を先途と射出し打出し、少しく痿(ひる)む処を、大筒をつるべ懸け放ける間、手負死人算を乱す如く、諸勢崩て引退く。斯て戦ふ事三日に及べども、城更に不弱、秀吉怒て中国の者共と、手始の戦に、かゝる拙き軍の仕様やある、秀吉を手本にして敵に息な継せぞ、美濃尾張の名折ばしすなと、馬廻り三百騎を卒し、采配を揚て、自身真先に駈給ふ、是を見て総勢潮の涌く如く、一度に押蒐る勢ひ当りがたく、既に外側四五十間打破られ、城勢詰の城へ逃入時、城主長井四郎左衛門、勢尽て降を乞ふ。
四方を沼地で囲まれた要害だったが、秀吉は切り倒した木を投げ込んで埋めた。後の水攻めとは逆のやり方だ。ところが城主長井氏の抵抗は激しく秀吉勢は苦戦する。怒った秀吉は「俺に続け」とばかりに真っ先に駆け出し、味方を勝利に導いたという。
さしもの播州一の名城も、こうして落城した。三木城陥落後、播磨を平定した秀吉は官兵衛から献上された姫路城に入る。石垣造りで三層の天守を戴くこの城は、名実ともに「播州一の名城」となったのである。

コメント