先月28日に松浦市教育委員会が、鷹島沖に沈む元寇船からマージャンの起源と見られる遊戯具が見つかったと発表した。日本征服と言っても長い船旅、常に緊張感に包まれた状況ではなかった。「この船団見たら倭人もびっくりだろ。尻に帆をかけて逃げ出しちまうぜ。まあ、一卓囲もうじゃねえか」
弘安四年(1281)夏、西太平洋で発生した大型台風が弧を描きながら九州北部に向かっていると、元軍は知る由もなかった。

福岡市早良区昭代(しょうだい)一丁目の祖原(そはら)公園に「元寇麁原(そはら)戦跡」と刻まれた石碑がある。
我が国に蒙古からの国書が初めて届いたのは文永五年(1268)だった。「通問結好以相親睦(通問して好みを結び以て相親睦せむ)」と言いながら「至用兵夫孰所好(兵を用ゐるに至るは夫れ孰か好む所ならむ)」と脅していた。
これを無視して何ら動かない日本に業を煮やしたクビライは、南宋征服に目途が立つと高麗にも動員をかけ二万八千の大軍を送り込んだ。文永十一年(1274)十月三日に高麗合浦を出発、対馬(五日)、壱岐(十四日)を蹂躙した後、二十日に博多湾の百道原(百道浜)に上陸したのである。
どのような戦いが繰り広げられたのか。まずは説明板を読んでみよう。
麁原(そはら)元寇古戦場跡
鎌倉時代の中頃、1274(文永11)年10月、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)とそれに服属した高麗王国の連合軍は、日本を侵攻するため、朝鮮半島を出航しました(文永の役)。対馬、壱岐、平戸島、鷹島、能古島に襲来した元軍は、博多湾に現れ、今津、百道原に上陸します。これを迎え撃った日本軍は、赤坂、鳥飼の一帯で元軍と交戦し、元軍は麁原(現在の祖原)に陣を構えました。その後、元軍は侵攻を断念して日本から撤退します。この文永の役後、鎌倉幕府は、再度の元の襲来に備えて石築地(元寇防塁)の築造をすすめ、1281(弘安4)年5月、再び日本に襲来した元軍を退けました(弘安の役)。ここ祖原山は、元寇の記憶を今に伝える大切な役割を担っています。
この小山は元・高麗連合軍の本営となった場所である。こんな都会のど真ん中で市街戦が行われたのか。さにあらず、海岸線は現在に比べて南にあり、鳥飼(とりかい)には干潟も広がっていた。石碑の裏にも説明があるので読んでみよう。
この地麁原山(そはらやま)は、初度の元寇文永十一年(一二七四)十月二十日に、早良川から百道(ももじ)にかけて上陸した敵の有力な一部隊の本陣となった。敵は軍旗をなびかし太皷やどらを鳴らして気勢をあげ、目前に展開する鳥飼、赤坂(福岡城裏)、別府(べふ)、荒江で、鉄炮(てっぽう)を放つなどして、わが郷土、肥前、肥後の将兵とはげしく戦った。そのことは肥後の竹崎季長の蒙古襲来絵詞や八幡大菩薩愚童訓(ぐどうきん)に見えている。なお、博多湾に浮かぶ能古、志賀島や西戸崎の海陸は、弘安四年(一二八一)再度の役に、東路軍が、わが軍の猛攻をうけて、ついに壱岐へ退去するにいたった古戦場である。
昭和四十九年十一月
題字揮毫 福岡市長 進藤一馬
石田清寄贈
中世最大の国難にも関わらず、一次史料はそれほど多くない。そういう意味では『蒙古襲来絵詞』は絵と言葉のハイブリッドで情報量が多く、当事者の証言に基づくだけに貴重だ。関係部分の詞書を書き写そう。
たけふさ(武房)にけうと(凶徒)あかさか(赤坂)のちん(陣)をかけおとされて、ふたて(二手)になりて、おほせい(大勢)はすそはら(麁原)にむ(向)きてひ(退)く、こせい(小勢)はへふ(別府)のつかハら(塚原)へひ(退)く、つかハら(塚原)よりとりかひ(鳥飼)のしほひかた(汐干潟)をおほせい(大勢)になりあハむとひ(退)くをお(追)かくるに、むま(馬)ひかた(干潟)には(馳)せたハして、そのかたき(敵)をの(延)ハす、けうと(凶徒)ハすそはら(麁原)にちん(陣)をとりて、いろ/\のはた(旗)をたてなら(立竝)へて、らんしやう(乱鐘)ひまなくしてひしめきあふ、すゑなか(季長)はせむか(馳向)ふを、とうけんた(藤源太)すけみつ(資光)申す、御かた(味方)ハつゝ(続)き候らん、御ま(待)ち候てせう(証)人をた(立)てゝ、御かせん(合戦)候へと申を、きうせん(弓箭)のみち、さきをもてしやう(賞)とす、たゝかけよとて、をめいてかく、けうと(凶徒)すそハら(麁原)よりとりかいかた(鳥飼潟)のしほや(汐屋)のまつ(松)のもと(下)にむけあ(向合)ハせてかせん(合戦)す、一はん(番)にはたさしむま(旗指馬)をい(射)られてはねを(落)とさる、すゑなか(季長)いけ(以下)三き(騎)いたて(痛手)を(負)ひ、むま(馬)い(射)られてはねしところに、ひせん(肥前)のくに(国)の御け(家)人しろいし(白石)の六郎みちやす(通泰)、こちん(後陣)より大せい(勢)にてかけしに、もうこ(蒙古)のいくさ(軍)ひきし(引退)りそきて、すそハら(麁原)にあ(上)かる
赤坂(福岡城)に陣していた元軍は、菊池武房に駆逐され二手に分かれて敗走した。多くは麁原山(祖原公園)を目指したが、一部は別府(城南区別府地区)の塚原に退いた。竹崎季長は塚原から鳥飼潟(中央区鳥飼、城南区鳥飼)を通って本体に合流しようとする軍勢を追いかけたが、馬が干潟に足を取られて倒れ、取り逃がしてしまった。元軍は麁原山に陣取り、様々な色の旗を立て鐘を打ち鳴らして騒いでいる。そこへ向かおうとする季長に、郎等の藤源太資光が「味方は続いて参りましょう。少々お待ちになり、戦功の証人を立ててから合戦なさりませ」と言うと、「武士は先駆けが一番の名誉じゃ。行くぞ!」と大声で言って駆け出した。元軍は麁原山から鳥飼潟の塩屋の松(中央区鳥飼三丁目の埴安神社)に打って出て来たので合戦が始まった。季長勢は先頭の旗指馬を射られて落馬、季長以下三騎が負傷し、馬が射られて飛び跳ね苦戦していたが、肥前国の御家人白石通泰の大軍が背後から駆け付けて援護すると、元軍は麁原山に退いた。
上陸した元軍は博多鴻臚館と大宰府政庁を結ぶ古代官道を目指そうとしたか、百道浜から東へ進んで赤坂の丘(後の福岡城)に陣を敷いた。ところが菊池武房に西へと押し戻されたため、元軍は麁原山(祖原公園)を本営とした。ここから再び東方面に攻勢をかけ、鳥飼潟(中央区・城南区の鳥飼地区)で戦闘となった。それが『蒙古襲来絵詞』に描かれたあの有名な場面である。竹崎季長は苦戦したが、味方の援護でなんとか元軍を退却に追い込んだ。
『絵詞』にある「鳥飼潟の塩屋の松」は、中央区鳥飼三丁目の埴安神社に明治二十六七年頃まであった老松で、幹の太さは六かかえもあったという。祖原公園から見る眺めが古戦場であったとは想像すら難しいが、我が国最大の国難に立ち向かい敵の進軍を食い止めた鎌倉武士の気概に思いを馳せたい。
さて、気になるのはその後である。もう一つの有名な一次史料『八幡愚童訓』には、次のように記されている。
サル程夜モ明レバ、廿一日朝海面ヲ見遣ルニ、蒙古船無一艘皆々馳帰ケリ。見之。コハ何事。今日九国充満無人種皆滅亡シナントコソ終夜歎キ明シツルニ、何トテ角帰ルラン。只事共覚ヌ在様哉トテ、泣笑色出。人心コソ付ニケレ。
夜が明けた二十一日の朝、海を見ると蒙古船が一艘もなく、すべて帰っている。「これを見ろ。いったいどうしたんだ? 今日にも九州に敵が満ちあふれ、我々は皆滅亡するのだろうと一晩中嘆き明かしたというのに、どうしてこのように帰ってしまったのか。ただ事とは思えないありさまだ。」と泣き笑いし、みんな同じような思いになった。
眼前の状況をどう理解したらよいのか。人には分からずともとも、神は風をふかして敵を追い払ったに違いない。これが神風の正体、脳内神風である。そして弘安の役で実際に神風が吹き、文永の役における不思議な思いが確信へと変わり、神風信仰へと昇華したのであろう。

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