長船越中が守った城

岩だから窪みがあっても不思議なことではない。しかし昔の人は、これは馬の蹄の痕跡だと見たのである。おそらく地面に残る蹄の跡を見慣れていたからだろう。このブログでは坂上田村麻呂の馬佐々木盛綱の馬、そして名馬生月の蹄の跡を紹介したことがある。本日は生駒山に残る蹄跡である。

兵庫県赤穂郡上郡町井上の生駒山にある「駒山城跡」を目指して、長い尾根先にある登山口から歩き始めた。ここはよく知られたご当地アルプス、上郡アルプスの一部である。

落葉を踏みしめる細道もあれば、押しも押されもせぬ岩場もある。関係者だが変化に富むコースが楽しい。途中に「馬の蹄跡」という表示があり、次のように説明されている。

この岩場には礫岩の礫が抜けた丸い穴があり、「馬の蹄跡」と呼ばれている。

有名人にまつわる伝説ではなく、科学的に説明されている。こういう真摯な姿勢には好感が持てる。

「本丸跡」である。眺望が利けば上郡の市街地が見えるはずだ。

ここは中世山陽道と千種川の結節地点という要衝の地であり、物流拠点として山野里宿が栄えていた。当然、地域最大の勢力、赤松氏が押さえていた城だったに違いない。

「空堀跡」と示された横堀である。写ってはいないが一部を石垣で補強している。

「はね上げ橋跡」という表示がある西端の堀切である。登山口にあった説明板を読み返そう。

上郡町指定文化財
駒山城跡
上郡町山野里・井上
標高二六三mの駒山山頂にあり、上郡の市街地を一望の下に見わたすことができます。南の尾根づたいと東の麓からの登山道が設けられています。
南北朝時代(一四世紀)の築城とも伝えられていますが、現在残る縄張は、戦国時代(一六世紀)の後半頃のものとおもわれます。二つの尾根を中心に、曲輪跡や石積・土塁・堀切・井戸跡などが残っており、瓦や備前焼等の戦国時代の遺物も採集されています。
瓦や石積など、後の近世城郭につながる特徴をもつ中世の山城として、町内でも数少ない貴重な城跡です。
上郡町 上郡町教育委員会

遺構の説明はあるが、赤松氏はおろか城主と思しき人名は全く登場しない。やはりここは播磨地誌の基本文献『播磨鑑』で調べてみよう。

【駒山城】安室郷在山ノ里村 上郡村ノ西二有之
城主ハ長船越中守居住ス。イニ律師則祐ノ居城。石上に馬ノ蹄ノ跡アリ。其六間七丁隔テ竹万村ニ小田、吉田、内海、片島ナト云者有越中守ト不和也。度々羽山ノ辺ニ挑戦シ駒山ヲ攻ム。竹万利アラス。苔縄村ニ高見治部ト云浪人有。軍学二長ス。小田等是ヲ頼テ山ツタヒニ駒山ニ入リ白昼ニ火ヲ放タシム。或説ニ円心ノ家臣内海十郎守ルト。

「馬の蹄跡」については昔から有名だったようだ。出家して律師妙善と名乗ったことのある赤松則祐の居城とも、赤松円心の家臣内海十郎が守ったともいう。

面白いのは長船越中守という城主をめぐる物語だ。駒山城から少し離れたところに竹万村がある。現在の上郡町竹万のことだろう。小田、吉田、内海、片島という4人の侍は長船越中守と仲が悪く、羽山の辺りでたびたび小競り合いをしていた。羽山は駒山城の麓の辺りだ。城を攻めあぐねた小田らは、軍学に詳しい苔縄村の高見治部を頼り、山伝いに城に入って放火したという。長船越中守がどうなったかは記されていない。

『播磨鑑』より早く成立したと思われる『赤松家播備作城記』には、次のように記されている。

駒山小聖寺城 赤穂郡安室庄井上村
安室五郎義長 赤松氏天文年中初築之居城
同新五郎
同子也 幼稚故長臣長船越中守之 天正五年同所筑間村住人小田氏吉田氏内海氏片嶋氏四人侍攻之不落 爰苔縄村浪人高見治部夜討放火故落城也 長船越中者其儘属羽柴秀吉

安室五郎義長の子新五郎が幼かったため長船越中が城を守った。その後の争いについては同様だが、落ち延びた長船越中は秀吉に属したという。

ところが「官兵衛が受け取りにきた城」で紹介したように、天正十二年(1584)頃、中国国分(くにわけ)により備前虎倉城が毛利方から秀吉方に譲られた。その守将として播磨駒山城から移ってきたのが、宇喜多氏の家臣である長船貞親(のちに越中守となる)だったのである。

宇喜多氏は天正三年(1575)に天神山城の戦いで浦上氏を打倒した。これに伴い、播磨駒山城は長船貞親に預けられた。天正五年(1577)はそれから間もなくであり、駒山城が「山ツタヒ」からの攻撃で落城したとは思えない。峻険な生駒山では、尾根筋の防御に全力を傾注するはずだ。

生駒山だから岩の窪みが馬の蹄跡に見えたのか、馬の蹄跡があるから生駒山と呼ばれるようになったのか。いずれにしても、『播磨鑑』も伝える馬の蹄跡である。馬主の名は伝わらないが、蹄跡が風化することはない。この先も語り伝えていこうではないか。

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