備後に孝霊天皇の陵墓がある!?

第7代孝霊天皇は『古事記』によると106歳、『日本書紀』によれば126歳まで在位76年にして崩御したという。譲位されたとの記録はない。ところが異説はあるもので、譲位したかもしれないという史跡を、本日は紹介しよう。

府中市栗柄町(くりがらちょう)に鎮座する「南宮神社」の本殿は市指定重要有形文化財である。

桁行五間に梁間三間という五間社入母屋造平入で、正面は千鳥破風と軒唐破風が付く豪華さである。説明板を読んでみよう。

府中市指定有形文化財
南宮神社本殿
昭和五十八年十二月六日指定
祭神=孝霊天皇、伊弉諾・伊弉冉神、金山彦を主祭神として十四柱を祀る
大同二年(八〇七年)の創建で、大昔は宮内の吉備津神社と肩を並べる備後三大社の一つであった。一説には、吉備津神社が一ノ宮に昇格以前は、当社が一宮であったとも伝える。
現在の本殿は、寛文九年(一六六九年)の造営と考えられ、正面五間、側面三間で入母屋造りである。大規模な五間社は県内に例が少ない。特徴として向拝は千鳥破風・唐破風付。内部は身舎柱が立ち仏堂的な建築様式である。
近くには神仏習合を物語る別当の神宮寺があり、また、境内に鐘楼が残っている神社は珍らしく、往古は非常に隆昌を誇った神社である。
府中市教育委員会 南宮神社

文化財指定されるだけの建築上の価値があることが分かるが、私が着目したいのは、かつて備後一宮だったかもしれないという気高さである。

なぜそのような格式の高さがあるのか。本殿から右手へと進むと「孝霊天皇御陵伝説地」の案内がある。その少し先に説明板があるので読んでみよう。

孝霊塚
古い宝篋印塔の立つ“俗称”孝霊塚は、南宮神社の主祭神である孝霊天皇の御陵と言い伝えられている。
即ち天皇が譲位の後、此の所を仙洞として住まはれて崩御されて築かれた説と、御子の吉備津彦命が、四道将軍として吉備国に御滞在の頃、御父の孝霊天皇を偲ばれて、ご分霊を祀る御陵を築かれた説との二説がある。

孝霊天皇はこの地で崩御されたのか御分霊が祀られているのか。いずれにしても、天皇とのゆかりが格式に無関係とは思えない。そのまま丘へと上がってみると…。

「孝霊天皇御陵伝説地」と刻まれた石碑、宝篋印塔、石像、その後ろに墳墓がある。

石像は何者なのか。近衛兵か墓守か、それとも息子の吉備津彦命か。宝篋印塔の左手に説明板があるので読んでみよう。

孝霊天皇御陵、宝篋印塔、石人、
備陽六郡志に「神宮寺上に古き宝篋印塔有、是を孝霊帝の御墓といひ伝う、其の後に図のごとくに山有、是陵ならんか」と記されています。(図とは、この文の前に掲載されている地南宮神社神宮寺一帯を書いた地図でその中に孝霊帝御墓がありそこに小山が書かれている。)
又元禄検地帳(神宮寺郷土館に展示)にもこの御陵が社地として記載されています。宝篋印塔は、文字がはっきりしないので、不明な点はありますが中世に天皇供養のためにつくられたもので非常に価値ある重要な文化財であります。
又石人は、殉死者を表したものと思われます。
府中商工会議所

『備陽六郡志』とは18世紀半ばの地誌で、福山藩士宮原直倁(なおゆき)が著した。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧すると、芦田郡栗柄村の項に著者自筆の図が掲載されており、確かに宝篋印塔の絵と「孝霊帝御墓」の文字がある。

なぜ第7代孝霊天皇の御陵があるのか。やはり御子の吉備津彦命がこの地に滞在していたという信仰から生じた伝説であろう。

朝廷の公式見解によれば、「延喜式」巻第二十一治部省諸陵寮に示されているのが真の御陵である。

片丘馬坂陵
黒田廬戸(いおど)宮御宇孝霊天皇。在大和国葛下(かつげ)郡。兆域東西二町。南北一町。守戸五烟。

片丘馬坂陵は奈良県北葛城郡王寺町本町三丁目の丘陵に治定されており、かつての葛下郡に該当する。兆域は陵墓の範囲、墓守をしていたのは五軒とのことだ。

御陵伝説地はやはり伝説に過ぎないのだろう。それでも、譲位しておらず、この地に住まわれたとも思えず、しかも実在性さえ疑われる天皇の御陵があると信じた人々の気持ちは大切にしたい。吉備津彦命の親孝行を目に見える形にしたのが、本日紹介したお墓だったのである。

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