満開の桜咲く激戦の城

よく使う天満屋バスステーションで「地頭」という行先のバスを見かける。両備と岡電ばかりの中では珍しい備北バスだ。泣く子はいても近ごろ地頭は見かけない。いったいどこにいるのだろう。鎌倉時代じゃあるまいし…と調べてみると、地頭の手前には「領家」もある。どうやら下地中分の結果が地名に刻まれているようだ。この荘園の名は「手荘(てのしょう)」。和名抄に掲載の「下道郡(かどうぐん)弟翳郷(てごう)」に由来する歴史ある地名である。

高梁市川上町七地(ななち)に市指定史跡「国吉城跡」がある。手前は四等三角点「城山」である。向こうに立つ木には「城山415.3」と表示されている。一番奥の土盛りは土塁である。

私は県道脇に駐車して歩いて城跡に向かった。いったいなぜこんな山奥に城があるのか。山城の立地は眺望と街道で決まる。木が茂って見通しが利かないことが多いが、眺めのよい場所を探してみよう。

見えているのは地頭の中心部だ。ここ地頭は、国道313号のように山陽道の井原から成羽、松山(高梁)へつながる街道(成羽往来)の通過点である。また、県道77号美星高山市線のように備後とを結ぶ街道(高山往来)が分岐していた。

構造はけっこうシンプルで、尾根筋に沿って曲輪が並んでいる。桜満開の季節で花見をする人がいてもよさそうだが、誰もいない。どのような城なのか、入口にある説明版を読んでみよう。

町指定 国吉城趾
備中松山城(城主三村元親)の支城である国吉城(城主三村政親)は、毛利輝元の総大将小早川隆景の率いる二万の兵に、天正二(一五七四)年十二月大晦日の夜、遂に攻略された備中兵乱の激戦を伝える中世の山城である。
「備中府誌」によると、安藤太郎左衛門入道元理が北条家からこの地を地頭職として宛行われた。この城を創設した時期は鎌倉期以前と思われる。兵乱後は毛利から口羽中務大輔春吉が在城。また関ヶ原合戦後に毛利が萩に移封となってからは、糟谷内膳正武則、八兵衛安長など慶長七(一六〇二)年から同十五(一六一〇)年まで居城したが、翌十六(一六一一)年に徳川幕府直轄領となったのを機会に廃城となった。
この城は、「く」の字状に屈曲した横矢斜の連郭式山城である。館跡と思われる地頭「堀ノ内」から北西約一・五キロ離れた標高四一九・六メートルで、谷田よりの比高約一四〇メートル。付近の地名に陣山、逆茂木谷、礼場、掛谷、水ケ迫、的場ノ段、小城山、玄蕃ヶ鼻等がある。城の縄張りは総延長一八〇メートルの城郭で、南北に連なる八曲輪と、西側より南側へ回り込んでいる通称「馬場」と呼ばれている脇郭で構成されている。最北の郭を「一ノ壇」と仮稱すると、この郭は長さ七〇メートル、幅一五~一ハメートルで、その北端に長さ七メートルの小規模な土塁がある。「二ノ壇」は「一ノ壇」より〇.五メ ートル上にあり、郭面は東西一五メートル、南北二四メートルの規模でここが主郭である。その理由は城郭全体のほぼ中央に位置すること、城内に入る道が「一ノ壇」の東辺に沿って「二ノ壇」に通じていることなどによる。脇郭の構造の特色は、郭面からかなり離れた低い位置にあり、また郭面からの距離は一五~三〇メートル、比高は二〇メートル以上もあり、この施設が部分的、限定的なものでなく、峰続きの北側から連郭の西辺を直線的に走り、南西角に折れをもって、南辺まで延びる大規模なものである。したがって城内の奥行を増し、攻勢、防禦の両面の機能を一層高めている。
川上町

人文面からはやはり、「備中兵乱」の舞台となったことが注目に値しよう。一番南の曲輪には「国吉城主三村右京之進政親一族有無両縁諸精霊魂」と刻まれた碑が建つ。昭和十三年に三村氏の関係者によって建てられたようだ。

どのような戦いだったのか。『備中兵乱記』「諸軍勢莟松山事附手荘城没落之事」を読んでみよう。

十二月二十三日手の庄の城国吉の城へ押寄す。彼城主三村右京亮政親は、元親一族にて無隠勇将也。兵粮乏しからざれば、輙(たやす)く可落とは見えざりけり。親成父子案内者なれば、斯のつまり彼の難所を凌て、我先にと岸際迄攻寄すれば、内より城主の舎弟三村大蔵・同七郎左衛門・宮ノ内蔵大輔・丹下与兵衛以下馳出て、鎗を合する事三五度、敵味方宗徒の軍士手負死人限なし。中にも丹下与兵衛は屈強の敵二人討取て、首二つ鋒に貫きしづ/\と帰る所を、輝元同朋覚阿弥、生年十八歳に成りけるが、今日の合戦手負死人あまた有と云へども、未だ双方へ印を取るとは不見るに、あの坂口に見ゆる敵、首二つ打物に貫き帰るぞ。あれ引落して今日の軍神に奉らんと、謂ひも不敢追懸て、やゝ暫し戦ひけるが、無手と組で双方指違て失にけり。又宮ノ内蔵大輔は、三村孫太郎が家来有木平内と云者に名乗り合せ、無手と引組み平内を取て伏せ、頸かき切て捨たりけり。平内も剛の者にて下より透間なく二刀刺す。内蔵大輔二町計は引退きしが、是も同時に果にけり。其日の軍は、城内の戦稠しければ、寄手の軍兵死する者数多也。流石の大将是程の小城一つになじかはひるむべき、翌日より仕寄せを付け大鉄砲を舁ぎ寄せ、二十九日寅刻には数千騎四方の山に打上り、思々の旗を立て、太皷を打て鬨を噇とぞ上にけり。城内の勢少もひるまず、鉄砲矢石如雨放ちかくる。寄手は猛勢なれば弥々不屈、城際に蹄を並べ、屏をきしつて持楯をつき、息をも不継責寄すれば、大晦日の夜半計に落城す。去れども彼一族は恙なく取退きけり。鶏頭の城も、明れば天正三年正月朔日に松山へこそ莟けれ。其勢電霆の響く如くなりしかば、松山勢大半色を失ひ、小屋中の人夫等皆震ひをのゝく事限なし。元親一身の覚悟故、かく成行くぞいたましき。

(毛利方についた三村親成は)天正二年(1574)12月23日、手荘(てのしょう)の国吉城へ押し寄せた。国吉城主三村右京亮(うきょうのすけ)政親は、三村元親一族でも知られた強い武将である。兵糧は十分にあり、簡単に落城するとは思えない。親成父子を先導役として難所を突破し、我先にと城のふもとに攻め寄せると、城内から政親の弟三村大蔵・同七郎左衛門・宮ノ内蔵大輔・丹下与兵衛らが飛び出して、三度五度と槍を合わせ多数の死傷者が出た。なかでも丹下与兵衛は屈強の敵二人を討ち取って、首二つを槍先に掲げて悠々と引き揚げていたが、毛利輝元の同朋衆で十八歳の覚阿弥が「今日の合戦で死傷者がたくさん出たが、両軍とも相手方の首を取った者はまだいない。なのに城へ戻ろうとするあの敵を見ろ。首二つを掲げて帰っていくぞ。あいつを倒して軍神にささげよう。」と言うや否や、追いかけてしばらく戦っていたが、ついにはむんずと組み合い最後は刺し違えて死んだ。また宮ノ内蔵大輔は、三村親成の子孫太郎の家来有木平内と名乗り合い、むんずと組んで平内を引き倒し、首を掻き切って捨てた。平内も強者で、組み合っている際に下から刀で続けて二回刺した。内蔵大輔は二町ばかり城へと引き下がったが死んでしまった。この日の戦いは城方が奮戦したので寄せ手の兵で死ぬ者が多かった。しかし、さすがは大将、小早川隆景は「これほどの小城一つに怯んでどうするのか」と、翌日からは防御の仕寄せと大砲を担ぎ上げ、29日寅の刻(未明)には数千騎が周囲の山に布陣し、それぞれの旗を立てて太鼓を打ち、鬨の声をどっと上げた。国吉城の城兵は少しも怯まず、鉄砲矢石を雨のごとく放った。寄せ手は猛き者どもでますます士気が高まり、城の際まで馬を並べ、塀が擦れ合うかのように楯を手に進み、息を継がずに攻め寄せると、大晦日の夜半についに落城した。しかしながら、三村政親とその一族は無事に落ち延びることができた。拡大していた戦線だが、天正三年(1575)元旦には松山城へと集中することとなった。その勢いは雷鳴のようであり、小屋にいる人夫らは震えおののくばかりであった。こうなったのは三村元親が個人的な恨みから宇喜多直家を倒そうとして毛利氏の結束を乱したためであり、不幸なことであった。

リアルにレポートされているが、軍記物には誇張はつきもので、架空の合戦まである。国吉城の戦いは、実際どうだったのだろう。「大日本古文書家わけ第八毛利家文書之一」に、次のような文書が収められている。

三七五 備中国手要害合戦頸注文(切紙)
天正三年正月朔日備中国手要害切崩之時討捕頸注文
毛利手
頸一 三村源七郎 粟屋彦衛門尉討捕之
頸一 児玉十郎左衛門尉討捕之
頸一 児玉与次郎討捕之
(以下略)

「手要害」は国吉城のことである。「頸注文」は首級リストである。かなりの数の首級が記録されている。やはり合戦は本当だったのだ。

国吉城のふもと地頭からデパート天満屋に向けてバスが出発する。1日4便、1時間49分の旅である。戦国の三村氏は備前進出に失敗したが、備北バスなら難なく行くことができる。帰りも4便あるから安心して買い物ができる。平和とはこういうことなのだろう。

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