
善通寺市碑殿町・吉原町、仲多度郡多度津町奥白方の境あたりに国指定史跡「天霧城跡」がある。弥谷寺方面から登ってきた私は、本丸手前の急坂「犬返しの険」を前に高低差の小さい「犬走り」の道を選んだ。写真は、その途中にある「古井戸」である。水の確保も山城には不可欠の要件だ。
「東の雨滝、西の天霧」と並び称される規模の大きな山城で、ずいぶん体力を使う。国指定史跡というからには、規模の大きさにとどまらない意義があるに違いない。登山口にあった説明板を思い返そう。
国指定史跡
天霧城跡-四国を代表する中世山城跡-(平成二年五月十六日指定)
天霧城は、山の地形などを利用した天然の要害(砦)を造り出した山城です。
古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓(やぐら)を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。
中世の城郭は、有事に対しての備えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも四百ヵ所近くが確認されています。その中で天霧城跡はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実戦的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海どの方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、十四世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である、多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が有事に備えた詰の城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で三km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高三百八十二m)から天霧山(三百八十一m)にかけての山頂部には、数カ所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(十六世紀後半頃)に該当しますが、東方屋根の調査では、出土遺物等から十五~十六世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています。
平成二十四年七月
二市一町天霧城跡保存会
事務局(善通寺市・三豊市・多度津町各教育委員会)
讃岐どころか四国屈指の山城だという。城主は香川氏。香川県だから香川氏かと思ったら、相模国の出身だそうだ。茅ヶ崎市には香川という地名と駅が存在する。遠くからやってきて讃岐西半分を支配するほどの勢力を築き、理想的な山城を築いたのである。さあ、実際に歩いて確かめよう。

犬走りの道をそのまま進むと、主郭の向こうにある大きな堀切に出る。ここから北東に続く尾根を進もう。曲輪はまだまだ続く。

北東端の方形郭に四等三角点「天霧山」がある。標高360.4mと表示されている。「東西神社へは降りることはできません」とあるが、そのとおりだろう。採石のため山体が大きく削られているのである。引き返して主郭を目指そう。

眼下を高松自動車道、国道11号が通過する。近世は讃岐街道のルートだった。もう少し西には鳥坂(とっさか)峠がある。人やモノの動きを掌握するのに適した立地と言えよう。
ちなみに古代南海道はもう少し南、香川県道49号観音寺善通寺線のようなルートで、写真右端に写る我拝師(がはいし)山の向こうにある大日峠を通過していた。

ついに「天霧城本丸跡(物見台)」にたどり着いた。「天霧山山頂381.8m」と表示されている。登り始めてから1時間以上が過ぎた。帰りは行きがけに回避した「犬返しの険」を下ることにしよう。

弥谷寺まで下りてきた。下界は桜満開。その陰に古い墓が並んでいる。

三豊市三野町大見乙の弥谷寺に「天霧城主『香川家』代々の墓」がある。
西讃岐で栄えた名族香川氏。戦国末期の当主之景(ゆきかげ)は、三好氏の仲介で織田信長から偏諱が与えられ信景と改めたものの、長宗我部元親の侵攻により危機を迎える。この時信景は元親の二男親和を養子として家名存続を図った。親和は香川氏嫡流として五郎次郎を名乗った。
ところが天正十三年(1585)、秀吉の四国征伐で長宗我部氏は土佐へ退去することとなり、信景も同道した。天霧城の歴史はここに終わるのである。
その後、香川五郎次郎親和は長宗我部氏の後継者争いに巻き込まれて病死した。天正十五年(1587)のことである。養父信景の最後はよく分からないそうだ。やがて悲しき香川氏の歴史。栄光の時代を弥谷寺の墓で偲ぼう。説明板には次のように記されている。
天霧城主「香川家」代々の墓
天正十三年八月秀吉の四国攻めにより香川氏滅亡して四百年詣でる人とてなく半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はこれより上方一〇〇メートル本堂西「西院」の旧跡にあった。
昭和五十九年住職建林良凞師が回向のため現在地に移したものである。
昭和六十一年一月二十三日
三野町教育委員会 三野町文化財保護委員会 三野町文化財保護協会
香川氏の拠った天霧山を讃える歌がある。
天霧山雪
久方の天霧山にふる雪は君か千歳を積まむとすらむ
大正天皇の即位に伴う大嘗祭において、主基斎田に香川県綾歌郡山田村が勅定され、これを寿いで竹内栖鳳が描き入江為守が詠んだ風俗歌屏風が制作された。侍従長として有名な入江相政の父君は、歌人として知られていた。
入江為守は大正から昭和初めにかけて御歌所の所長を務めた。御歌所には歌壇の主流であった桂園派の流れを汲む人が多く在籍した。その桂園派の祖が香川景樹である。ここで香川氏が登場したが、景樹は岩国藩に仕えた安芸香川氏の一族に連なる。讃岐香川氏との共通の祖先をたどると、鎌倉権五郎景政に行きつく。
天嶮の城「天霧城」に拠った香川氏と枕詞「久方の」に続けて天霧山を詠んだ入江為守。武家の系譜と歌人の系譜が両者をつなげる不思議。縁のある歌人が天霧城を讃えたことは、土佐に消えた香川氏へのせめてもの供養となったことだろう。

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