白村江の戦いの後、我が国と唐の関係はどうなったのか。近江遷都を敢行し、九州から瀬戸内にかけて山城を築いて万全の防御態勢を整えたことから、かなりの緊張関係があったとの印象を受ける。
しかし実際には、双方の使節が往来し、戦後処理が進んだ。我が国は百済遺民や高句麗に対する支援をやめることを確約したらしい。これにより唐は高句麗打倒に成功するのである。
倭が朝鮮半島情勢に介入することはなかったが、避難民は積極的に受け入れた。彼らの持つ技術は古代山城築造に生かされたと考えられる。


坂出市西庄町(にしのしょうちょう)に国史跡「城山(きやま)」がある。写真は門扉を支える礎石で、「ホロソ石」と独特の名称で呼ばれている。
醍醐古墳群を巡って登ってきた私が最初に出合った「城山」がこれである。似たような形状の石はほかの古代山城にもあって、播磨の城山(きのやま)城では「門の築石(つきいし)」、周防の石城山神籠石(いわきさんこうごいし)では「沓石(くついし)」と呼ばれている。
説明板を読んでみよう。
国指定史跡 城山(ホロソ石・カガミ石)
昭和26年に国の史跡に指定された城山城址は山のほぼ大半を巡る石塁や土塁、そして城門、水口、城の入口に使用されたと推定されているホロソ石、マナイタ石、カガミ石などの石造加工物によって知られている古代の山城である。
全国的にも古代山城は幾つか知られているが「日本書紀」に記載されているものを朝鮮式山城とし、類似しているが名前が記載されていないものを神籠石と呼んでいる。讃岐では屋島の古代山城が前者で城山は後者にあたる。ところで、神籠石は戦前に霊域説と山城説で論争された経緯があり、霊域説は石塁が神聖な場所を区画するためのものであると論じた。しかし、戦後の発掘調査等により朝鮮式山城と類似した構造であることが確認され、現在では神籠石も古代山城であるといわれる。
ここには石造加工物で凹状を呈する向かい合ったホロソ石2個と、平らな面をもつカガミ石とよばれるもの1個が存在する。城山城址ではホロソ石は現在9個知られており、カガミ石3個、マナイタ石3個(カガミ石と類似しているが、長軸方向に段が存在する)が存在する。これらは門の構造物(柱)の一部と推察されており、マナイタ石を中央にしてホロソ石2個を向かい合わす構造が想定されている。
城山城址については、発掘調査が実施されていないため、未だ不明な点が多い。各遺構の配置もそれが破壊によるものか、構築途中で中止されたものかわかっていない。しかし城山をほぼ全域にわたって囲む石塁や土塁から、古代に大工事が実施されようとしたことは確実であり、このような城を築き外敵にそなえなければならなかった当時の日本の状況を考えるうえでも重要な遺跡である。
坂出市教育委員会 平成元年六月
ホロソ石の他にカガミ石、マナイタ石があるという。「朝鮮式山城」と「神籠石」の区別も説明されているが、今は古代山城で十分だろう。
歩いていると「防御の石畳」の表示があるので行ってみた。

この石列は古代山城の特徴である。今は明瞭な区画となっていないが、築城当時は違った様相を呈していたのだろう。さあ、どんどん登っていこう。


城山を特徴づける「ホロソ石」である。ホロソの意味は不明とのこと。
ここにも丁寧な説明板があるので、読んでみよう。
城山城跡 ホロソ石
城山には7世紀後半に築かれたとされる古代山城の遺構が、今も数多く残っています。
その中には、明らかに人の手により加工された石が何種類かあります。ここにある「ホロソ石」もそのひとつです。ホロソ石は上面を平らにした長さ1.5m、幅90cm程の石に、奥行き30cm程の抉(えぐ)りを入れられたもので、凹の字の形をしています。
城山では現在のところ全部で9個のホロソ石が見つかっていますが、その内ひとつは抉りが下まで達しておらず、製作途中で何らかの理由により破棄されたものと考えられます。
ホロソ石は他の石とともに、図のような城門の基礎となったものと考えられています。しかし本当に城門の基礎だったのか、そして城門自体がきちんと造られたかどうか、はっきりとわかっていません。
平成二十六年三月 坂出市教育委員会
山城として完成したのかどうかも分からないという。白村江戦後、数十年で日唐関係は安定し、迎撃態勢の必要性はなくなってしまった。この城山も未完成のまま放置されたのかもしれない。
車道を歩いて城山最高地点を目指すことにしよう。

一等三角点「城山」462.1mである。坂出市西庄町・府中町・川津町、丸亀市飯山町東坂元の境でもある。
ホロソ石からずいぶん歩いてここまで来た。城郭において立地と眺望は不可分の関係にあるが、ここならそれが実感できる。見よ、この眺めを。

この海で藤原純友が海賊を率いて反乱を起こし、毛利水軍が石山本願寺の救援に向かった。争いの舞台となった瀬戸内海に、唐の水軍が侵入することはついになかった。小国であっても威儀を正し、唐を大国としてリスペクトする姿勢を貫く。我が国の外交努力が実を結んだのである。
説明板を読んでみよう。
史跡城山
城山は、標高462mと、この付近における最高峰の山であり、視界は極めて広く、景勝の地であります。山腹は比較的急峻であるが、山上部は緩やかに起伏しています。その中に、西北に向かって口を開く凹地を囲んで城郭の跡があります。
城郭は、山上部を中心に二重の石塁で囲まれています。山頂部の礎石群や、内側の石塁の間に城門・水門といった城郭遺構が残っています。外郭の急峻な斜面付近には、上面が平坦となる石塁土塁が稜線に沿って約6kmにわたって山頂を囲んでいます。城内各所にはホロソ石・マナイタ石と呼ばれる石製加工物も確認されています。
築城の時期は詳らかでないが、七世紀後半頃に築かれた古代山城と考えられています。また、東の明神原には平安時代に、国司菅原道真が雨乞いをしたという古代祭祀の跡もあります。
城門や石塁など、よく当時の様子をとどめており、古代史上貴重な遺跡として昭和二十六年に国の史跡に指定されています。
平成四年度 香川県
さあ、当時の様子をよくとどめるという城門へと向かうことにしよう。


城山を代表する遺構「城門」である。
北側からは迫力のある石塁を見ることができるが、南側からは見事な眺望が得られる。見張りの兵士も同じ眺めを見ていたのだろうか。説明板を読んでみよう。
城山城跡 城門
城山には7世紀後半に築かれたとされる古代山城の遺構が、今も数多く残っています。
中でも城門は最も重要な遺構のひとつです。城山にはいくつかの城門があったと考えられますが、現在残っているのは北を向いているこの城門のみです。
門両側の石積み(石塁)は上部の土盛りも含め2.8mの高さがあります。またコーナー部には安山岩の切石を算木積みにしており、他の石塁とは違った様相が見受けられます。
城門の幅(石塁と石塁の間)は4.4mあり、下図のような城門の復元図が考えられました。しかし大正時代に白峰宮の西に降ろされた「マナイタ石」を除いてこの城門の側に石造加工物はなく、城門が完成していたかどうかさえ、未だ定かにはなっていません。
平成二十六年三月 坂出市教育委員会
完成したのかどうかも分からないという。やはりそれだけ平和だったということだろう。武器輸出解禁に踏み切った今の政府とは真逆の姿勢だ。城山全体についての説明板もあるので読んでみよう。
ここ城山には、城門の跡や水口(水門)、ホロソ石やマナイタ石などの石造加工物、土塁・石塁といった遺構が今も数多く残されています。
これらは唐・新羅の軍勢を迎え撃つため、7世紀後半に九州から瀬戸内海沿岸にかけて築かれた「古代山城」の一部であると考えられています。
平成二十六年三月 坂出市教育委員会
確かに迎撃態勢をとってはいたが、一方で外交努力と内政強化が図られた。二官八省を整えて「日本」「天皇」と称する誇りある外交姿勢に唐も紳士的に応え、パクス・シニカが実現したのである。
飛鳥時代の軍事施設がゴルフ場に転用されている。嗚呼、これほど平和を象徴する場所がどこにあろうか。願わくは城山顕彰の気運の一層盛り上がらんことを。

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