讃岐の中心にある終末期古墳

先日、「豊臣兄弟!」展を徳川美術館に見に行った。国宝、重文を含む貴重な史料が多数展示されていた。金箔の残る瓦や乱刃の刀剣、変わり兜なら見るだけで感嘆の声が洩れるが、古文書は釈文を読んでも意味が分からない。解説を読んで理解しようとすると、なかなか先へ進めない。

その点「豊臣兄弟!」展では、解説につまり何なのかを示す要約が付されており、理解にとても役立った。文化財と私たちをつなぐのは、簡にして要を得た一文解説である。

坂出市西庄町(にしのしょうちょう)に「醍醐古墳群」がある。雅な名前は近くの醍醐寺に由来するのだろう。香川県遺跡地図によれば11号墳まであるようだ。上の写真は7号墳である。

立派な横穴式石室で、玄門の柱石の美しさ、持ち送りの絶妙な傾き、奥壁の鏡石の大きさが印象的だ。説明板を読んでみよう。

▲醍醐古墳群2号墳をひと回り小さくしたような石室。ただしさらにスリム化されており、とにかく縦に長い。
▲醍醐古墳群2号墳のように立派できれいな玄門立柱。同じ系統の古墳だということが感じられる。
▲奥壁の上が少しだが開いている。空気の流れを感じることもあり少し不気味。

3つ目の解説はいったい何だ。開いていれば風が入るだろう。少し不気味って個人の感想じゃね。ってツッコまれそうだが、こういうのが楽しい。じゃ、入ってみようかという気になる。

もちろん大切なことも書かれている。2号墳を「ひと回り小さくした」「スリム化した」という見立ては、2号墳に続いて築造されたことを示唆している。その2号墳に行ってみよう。

古墳群を代表する2号墳である。

とにかく気持ちいいくらい大きい。さあ、ここではどのような解説を聞かせてくれるのだろうか。

▲幅において醍醐古墳群3号墳より少しだけ狭いものの、玄室の長さ、高さにおいては最大であり、床面積も飛びぬけて大きい。羨道が完全に残っていないことが本当に悔やまれる。
▲とにかく大きい玄室だが、幅に比べ高さがあるため、持ち送りがあってもかなりスリムに感じる。
▲とてもきれいに作られた玄門(表ページや裏表紙も参照)。切り取られた空間はまるで工業製品のようだ。

「本当に悔やまれる」と、とても気落ちを込めて語っている。確かにおっしゃる通りで、完全な姿を見たかった。それにしても(表ページや裏表紙も参照)って何だ? おそらくパンフレットから借用しているのだろう。文中に登場した3号墳に行ってみよう。

入口は狭いが、けっこう大きな3号墳である。

崩れた入口だけ見ると価値を見誤ってしまう。解説に3号墳の意義が分かりやすく示されている。

▲市内でも最大級の古墳であり、府中町の新宮古墳と同様、前室を持つ
▲石室はここで土砂に区切られているが昭和60年度の発掘調査によりさらに南に羨道が続くことが分かっている。
▲入口が塞がれているほか、醍醐古墳群2号墳と比べ、高さが低く壁の傾斜もあるため、広い石室ながら圧迫感がある。

玄室の前に「前室」があり、さらに羨道も続いていたというのだ。つまり部屋が二つある「複室構造」なのである。確かに、同じ市内府中町にある新宮古墳も複室構造の巨石墳である。さらに、四国最大級の横穴式石室を誇る椀貸塚古墳(観音寺市大野原町大野原)も複室構造である。

以上を系譜のように並べると、椀貸塚古墳→新宮古墳→醍醐古墳群3号墳→同2号墳→同7号墳となるようだ。椀貸塚古墳の6世紀後半から醍醐古墳群7号墳の7世紀半ばにかけて、百年近い巨石文化であった。

醍醐古墳群と新宮古墳を頂点とする三角形を描くなら、もう一つの頂点は同じ市内加茂町の穴薬師古墳である。その横穴式石室は市内最大級。綾川が流れる肥沃な三角地帯が、富と権力を生み出したのであろう。

坂出市西庄町に「醍醐寺跡」の塔基壇がある。

醍醐古墳7号墳あたりを最後として、綾北の巨石墳文化は終息する。その後、醍醐寺古墳群近くに醍醐寺、穴薬師古墳近くに鴨廃寺、新宮古墳近くに開法寺が建立された。そして扇の要となる位置、開法寺に隣接して讃岐国府があった。ここはまさに讃岐の中心である。

7世紀後半、我が国は対外危機に直面する。百済救援失敗により唐・新羅連合軍の報復が予想される事態となった。瀬戸内海沿岸には敵を迎え撃つ山城が築かれる。醍醐寺の背後の山にもその一つがあり、今「城山(きやま)」と呼ばれている。巨石を加工した強固な山城構築を可能としたのは、この地域で栄えた巨石墳文化だったに違いない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました