幕府使者の理不尽な死

文久二年(すでに1863)十二月五日、幕府は攘夷を奉勅した。破約攘夷の文久国是が確立したのである。しかしながら、解釈によって国論は二分されていく。いや幕府をはじめ大半の藩は、攻撃された場合に迎え撃つ「襲来打払」という常識的な考えだったが、朝廷や長州藩の過激派は、外国船への攻撃を即実行する「無二念打払」を主張した。

一人一票の国民投票なら幕府を代表する常識派が勝利しただろうが、過激派が動かす朝廷という権力者が立ちはだかっているのである。今の皇室典範改正と同じ構図で、女性・女系天皇肯定派が国民の多数を占めるのだが、因循姑息派の政府と総意を偽装した衆参両院の正副議長が男系男子を押し通したのである。権力は握ったもん勝ちなのだ。

打ち払うと決めたんでしょ。じゃ、打ち払いますよ。朝廷からのご命令に従っているんです。どこが悪いんですか。と話にならぬ態度で長州藩は、外国船を砲撃した。これを受け、過激派の牛耳る朝廷は「よくやった」と褒め、正親町公董を監察使として派遣した。

この対応に苦慮したのが譜代大名小倉藩である。常識的な穏便な対応をしているのに、圧力はどんどん強まる。窮した藩首脳は幕府に助けを求める。そこで幕府は、糾問使として旗本中根市之丞を派遣したのである。幕府が動けば長州もビビるだろう、との見通しを持っていた。

しかし、長州の過激派は、想像以上の過激な行動に出たのである。

山口市小郡津市(おごおりついち)10番29号の⻄中国信⽤⾦庫⼩郡⽀店に「三原屋本陣跡」がある。電柱の表示にあるように、かつては小郡下郷1201番地だったが、令和8年2月14日の実施された住居表示で今の地名になった。

ここは旧山陽道小郡宿の本陣三原屋のあった場所である。まったく面影はないが、あえて史跡表示があるのは、ここで歴史的な大事件が発生したからである。説明板を読んでみよう。

三原屋本陣跡
昔東津方面から津市方面を通る道は山陽道と称し江戸(東京)への参勤交代の要衝街道であったため当地に本陣三原屋があった。この本陣は諸大名や武士の宿るところで藩費(公金)でまかなわれていたものである。長州藩は文久3年(1863)5月10日赤間関(下関)で全国に先がけ攘夷(外国船を砲撃)決行したので、これを中止させるための詰問使者として幕府使番中根市之丞等が艦船朝陽丸で現地に来て協議するも話し合いがつかず藩公敬親に目通りのため同年7月29日に本陣三原屋に入った。この時たまたま藩公病気のため快癒を三原屋で待っていた同年8月19日壮士数人が三原屋を襲い幕府目付鈴木八五郎他長谷川勇助須原栄の3名が暗殺され、中根市之丞等は難をのがれて脱出したが、翌々日帰る途中防府市中ノ関沖の船上で暗殺された。これを三原屋事件という。この三原屋本陣跡は現西中国信用金庫小郡支店のあるところである。
鈴木八五郎等3名の墓が山口市小郡山手下に三原事件殉難士の墓として建立されている。又中根市之丞等の墓は防府市中ノ関の西戸泊崎の岩場にある。
山口市教育委員会

幕府の使者を乗せた朝陽丸は下関に来航したが、長州藩の過激派奇兵隊によって武力占拠されてしまう。(7月26日)ちょうどその頃、攘夷の勅命を奉じない小倉藩を処分せよ、と長州藩が朝廷に働きかけ、藩主の官位剥奪、所領没収の沙汰が出された。(8月12日)

幕府の立場を無視する傍若無人の動きを食い止めるため、良識派は孝明天皇の了解を得てクーデターに打って出る。八月十八日の政変。過激派が朝廷から追放されたのである。長州藩に第一報が届いたのは23日だったという。この間、19~21日に糾問使中根市之丞一行は過激派によって殺害されてしまったのである。

政変により朝幕関係は公武合体でまとまることとなったが、長州藩の過激派は健在であり、武力で失地回復に動き出す。禁門の変、長州征伐へと幕末の混迷は続くのである。

幕末はテロの時代であった。話し合って折り合いをつけようとする雰囲気はない。何人もの真面目な人の命が失われたというのに、おそらく誰も責任をとっていないのではないか。

三原屋事件の犠牲者はしばらく墓さえなかったようだが、昭和3年に徳川毛利両公爵家の援助で「三原屋殉難士之墓」が建てられたそうだ。恩讐が歴史となるまでに、時間が必要だったのだろう。

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