あの平清盛も任官された安芸守。「松平安芸守」とは広島藩浅野本家の名乗りである。さすがは安芸の太守、中国最大の大藩である。この由緒ある「安芸守」を名乗る山があるという。行ってみよう。

浅口市鴨方町益坂(ますさか)と同市金光町地頭下(じとうしも)の境に「安芸守山城跡」がある。主郭から南へ曲輪が段状に連なり、周囲はけっこうな傾斜である。
鴨方富士とも呼ばれる標高199mの美しい山である。浅口市街地がよく見渡せ、国道2号ルートの鴨方往来を押さえる立地だ。西側に位置する有力大名細川通董の居城「鴨山城」とは、何らかの連携があったことだろう。

北側の堀切である。右手に位置する主郭はロープを伝うほどの急崖の上にある。

南側の堀切である。それほど深くないが、頂部へは高い切岸で進入を阻んでいる。
「安芸守山」は城主の名にちなむと想像されるが、いったい誰だろうか。岡山藩の官撰地誌『備陽国誌』(元文四年成立)「備中国の内岡山領地」は、次のように記録している。
古城山 地頭下村。城主安芸守といふ。何れの人といふ事をしらず。
近代の『浅口郡誌』地理門後編人文地理史蹟名勝天然記念物門第二編各節「西知山城と安芸守山城」はどうだろうか。
安芸守山城は地頭下に在り。西知山城の南に屹立し、頂上に南北の長さ殆んど一町許の平地ありて五段階に分れ、北より南に低下し(格段の高さ四、五尺)、西北部には少許下りたる所に平地あり。本丸には城主を祀ると伝ふる祠あり。天然石を置き、側に二本の老松あり。西南の山腹より数十年前、地を拓きたる際、数個の遺骸を発掘せりと云ふ。里人城主を宍戸安芸守と称し、毛利氏の臣と云ひ伝ふれど史には見えず。地頭神の西知山城主亦芸州住人生石中務と云ふ、何れも群雄割拠の同時代毛利氏の幕下たりしものならん。
戦国の備中にあって安芸守と言えば、備中兵乱で三村氏討伐に活躍し、乱後に鬼ノ身城の城主となった宍戸安芸守隆家であろう。
しかし、実際に安芸守隆家がこの城に拠ったとも思えない。おそらく毛利四本目の矢と呼ばれた隆家の威光が名称として残ったのではないだろうか。

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