先日、両陛下は「くまモン」バッジを付けて、熊本の被災者をお見舞いされた。陛下が国民とともにあるそうした姿が広く受け入れられ、その好感が天皇制を支える基盤となっている。しかし、明治初期には神聖な権威が傷つくのではという懸念もあったようだ。それを打破し、君民一体の国体を創造したのが、天皇の地方巡幸であった。推進者の大久保内務卿の功績大なるものがあるといえよう。

兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原に「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之碑」がある。書は陸軍大将男爵田中義一、昭和2年から4年にかけて首相を務めた大物政治家である。裏面には「昭和三年五月 舩坂村建之」とある。船坂村は昭和30年に上郡町となった。
時は明治十八年(1885)。明治大帝六大巡幸の最後となる山陽道巡幸も終わろうとしていた。8月7日朝に岡山を発った天皇一行は山陽道を東へと向かった。途中「暑くてたまらなかった明治天皇」で紹介したようなエピソードを残し、その晩は県境手前の三石にお泊りになった。
翌朝6時36分に宿所を発ち、上りの峠道で馬車から馬へと乗り換えた。船坂峠では内海忠勝兵庫県令が出迎え、7時9分に御小休所である瀧川武平宅にお着きになった。馬車で出発されたのは7時40分であった。
鯰峠は馬で越えられ、馬路池のほとりでご休憩になった。その後、旧有年宿の本陣であった柳原逸郎邸でお休みになり、千種川は船橋を徒歩で渡られた。次に休憩されたのがここである。

相生市若狭野町入野に「明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)處」がある。書は従二位勲一等股野琢、龍野藩儒の家に生まれ内大臣秘書官長として活躍した官僚である。裏面には「大正十三年十一月建之 若狭野村」とある。若狭野村は昭和29年に相生市となった。
御小休所である鶴亀警察分署に到着されたのは10時32分。そして11時8分に再び馬車で出発された。その後お立ち寄りになった場所については「明治天皇のお昼休み」で正條行在所、「明治天皇の小休止」で山田御小休所を紹介している。
この御巡幸に供奉した重要な人を紹介しよう。当時参議にして宮内卿、この年に初代内閣総理大臣に就任する伊藤博文伯爵である。国家の安寧は国制にあり。国民国家を創設しようとする大久保利通の遺志を受け継ぎ、人の恣意によって左右されない政治制度を整備した。近代日本の基礎を築いた最大の功労者と言ってよいだろう。
明治天皇と伊藤博文。近代日本を体現する二人がこの地をともに歩んだのである。旧山陽道は交通の発達とともに狭くなり、私たちは広い国道2号を高速で走る。梨ケ原御小休所跡(明治天皇駐輦之碑)は旧道脇となったが、それでも入野御小休所跡(明治天皇駐蹕處)は国道沿いにある。明治帝と伊藤伯の近代を受け継ぐ私たちが同じ道を進んでいる。私たちは未来にいったい何を残せるだろうか。

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