『絵本太功記』では、武智光秀が主君である尾田春長を本能寺で討つが、真柴久吉に討伐されてしまう。そんな名前の人物は日本史上にいないが、誰もが「ああ、あのことね」と理解できる。これはフィクションでして、今おられる方々とも何の関係もございません。同様なテロップは今もドラマの終わりに見かけることがある。歴史をエンタメとして楽しむために、お上からの処罰や関係者による名誉棄損訴訟、視聴者からの史実歪曲批判を回避しているのだ。

岡山市中区平井一丁目に「権八井戸」がある。
権八と聞いてもピンとこない人は多いだろう。まずは東京にあるゆかりの場所についてのレポート「お若えの、お待ちなせえやし」を読んでほしい。
劇中での権八の名字は白井だが、本名は平井である。延宝七年(1679)に処刑された時、25歳だったと言われている。権八と交わすセリフが有名な侠客、幡随院長兵衛も実在の人物だが、殺害されたのは明暦三年(1657)であり、劇の設定は全くのフィクションであった。
権八の登場作品が人気を博すのは化政文化の時代であり、百年も前の細かいことはどうでもよくなっていたのだろう。この権八が岡山と何のゆかりがあるのだろう。本名の平井は地名と同じだが関係あるのだろうか。説明板を読んでみよう。
権八井戸(史跡)
権八とは、歌舞伎や講談で有名な白井権八のことである。
鳥取藩士平井正右衛門が岡山在藩中、当地で権八が生まれ、産湯を使った井戸と云われ町内会で管理している。
平成九年十月吉日
平井学区コミュニティ協会
鳥取藩士である父が岡山藩にいた頃に、この地で権八が生まれたという。鳥取藩と岡山藩は同じ池田家が藩主であり、寛永九年(1632)にお国替えが行われた。それまで岡山を治めていた分家出身の池田光仲と家臣団は鳥取へと移ったのである。そうすると、権八が生まれたのは鳥取ではないかという疑念が出てくる。
では何の関係もないかというと、そうでもないようだ。天保の頃に成立した地誌『東備郡村志』巻之二「上道郡」宇治郷には平井村について、次のように記されている。宇治郷は今の岡山市中心部の旭川左岸のあたりらしい。
【平井】自岡山行程卅町。水程十九町。高千三百十八石八斗、残高二千三百二十五石八斗。民屋三百余戸。古は吉岡村と名く。何時か平井と改む。冬に至れば膾残魚(シロウヲ)多し。味他処の産に勝る。
▲城址。乞食谷の東、今赤土山と云ふ。平井助之進が古居。
▲宇喜多の臣、平井荘左衛門、天正のころ当村に住す。其宅址今不知。
▲赤土山。乞人谷の東也。土赤し。十余年前、地を鑿て坑をみる。其中に太刀・鏡・鍔・硯あり。又朱数十斤を得る。是れ古の貴人の墓なるべし。其塚甚大なり王公の墓なるべし。或人の説に、宇治の郎子の墳と云ふ。尚可考。
ここ平井には城があり、平井氏という地侍がいたことが分かる。その城を赤土山といい、この山は「古の貴人の墓」だという。つまり古墳だ。しかも「其塚甚大」というほど大きいのだから、該当するのは網浜茶臼山古墳、操山109号墳ということになる。
2基の古墳は今、東山墓地の中に埋もれ古墳だと気付きにくい。ところが近年注目されている赤色立体地図で確認すると、前方後円墳だと分かる。

前方後円墳2基のうち上側が網浜茶臼山古墳、下側が操山109号墳である。おそらくこの辺りに平井氏の構えた城があったのだろう。平井氏の使っていた井戸が、権八人気の影響で産湯の井戸ということになったのかもしれない。大河ドラマのように「権八紀行」のコーナーがあれば、素敵な音楽とともに紹介されたであろうに。


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