神に祈れば神の声を聴く

江戸時代の後期には黒住教、天理教、金光教と新宗教が生まれ、伊勢神宮へのお蔭参りも盛んに行われた。天候不順など様々な社会不安のもと、人々は現世利益を願って気持ちを落ち着けようとした。浮世絵や瓦版などによる情報伝播も求める心にヒットしただろう。現代のSNSが掻き立てる心性と同じだ。

このように宗教的な社会空間においては、流行神が人々の心をとらえ、ブームとなることがしばしばある。江戸の出来事を編年体でまとめた『武江年表』慶応三年九月条に次のような記述がある。

同月の頃より、浅草田畝(たんぼ)立花侯下屋敷、鎮守太郎稲荷社へ参詣群集する事始れり、此社は享和の頃より参詣群集しけるが、文化三年の春より廃れ、今年又俄に繁昌し、此辺新堀と唱へし、溝の両側へ茶店食舗等建つらね、桜の稚木を栽並ぶる事一町程なり、石の鳥居石燈籠挑灯幟幕等夥しく奉納し、日々參詣して神符を乞受け、霊験を仰ぐ人多かりしが、翌年四月の頃よりして次第に絶えたり、

台東区入谷にある太郎稲荷は典型的な流行神で、歌川芳盛の浮世絵「流行諸願請取所」(慶応三年)では、正一位太郎稲荷大明神と清正公大神儀のどちらが諸人の願いを叶えるか力競べをしている様子が描かれている。

また、嘉永二年(1849)の歌川国芳「流行神の踊り」では、お竹如来(両国回向院で出開帳)、正受院の奪衣婆(内藤新宿の正受院)、翁稲荷(日本橋元四日市町、現在は明徳稲荷神社に合祀)が描かれている。ちなみに、あのアマビエが出現したのは弘化三年(1846)というから、流行神を楽しむ時代相があったのだろう。

岡山市中区長利に「耳岩神社」が鎮座する。けっこうな急坂を上ると大きな岩がある。上がご神体の耳岩、下が奥の院の岩である。

かつては耳岩の前に拝殿があり、直接見ることはできなかったそうだ。なんだか吸い込まれそうな迫力を感じる。いったいどんな由緒があり、どんなご利益があるのだろう。麓に設置された説明板を読んでみよう。

耳岩神社由来
昔、神社下にあった旧家の先祖の枕辺に白衣の神が立ち「私はこの前の山にある耳の形をした岩かげに居る。自分を祀れば耳の病人におかげを授けるだろう。」というお告げを下された。
そこで、旧家の先祖をはじめ、その話を聞いた近所の人たちが急な山を這い登り、大きな岩かげにある丸石の御神体に灯明を捧げ祭礼を行った。
これが耳岩神社創建の由来である。
「亀津の岩陰に火が見える耳岩様にお参りすれば耳の病気は不思議なほど治る。願い事は必ず成就する。」
噂は広まり、やがて、岩が耳に似ていることから、誰云うことなく耳岩様と云われるようになった。
天保十年(千八百三十九年)庚子歳、拝殿が建立されると近郷はもとより遠隔の地からも参詣人は、引きも切らず賑わいを極めた。
令和三年(二千二十一年)辛丑歳、拝殿の老朽化のため、長利住民の浄財により、御神体を山裾に遷座した。
耳岩神社奉賛会
長利町内会

耳岩神社拝殿跡
江戸後期天保十年に建立された拝殿は過去幾多の修繕を重ねて来ましたが、老朽化のため山裾に遷座いたしました。長年、拝殿に覆われていた耳神様が、出現いたしました。
奥の院
奥の院もまた、耳の形をした岩です。一説によりますと、この奥の院が、本来の耳岩様ではとも云われています。

天保十年(1839)に拝殿が建立されると多くの参拝者で賑わったという。江戸も地方も人々が現世利益を求める思いは同じである。今も毎年4月29日には大祭が執り行われ、多くの人が訪れるそうだ。一過性の流行神に終わることなく地域に信仰が定着し、今では地理院地図でも「耳岩」の表記を見ることができる。

「話し上手よりも聞き上手になれ」という箴言がある。まったくおっしゃる通りで、次に何をしゃべろうか考えるばかりで、相手の話が頭に入って来ない。人と会っては話をよく聞き、神に祈れば神の声を聴く。サウイフモノニワタシハナリタイ。

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