備中南部を見張った山城

先日、NHKのクローズアップ現代が「お城が一大事!?“地域の宝”どうつなぐ?」と題して、貴重な観光資源となっている天守閣の存続問題を報じていた。江戸時代からの国宝天守は人が殺到して傷む恐れがあり、戦後に鉄筋コンクリートで再建された復元天守は劣化が進んでいる。

耐震補強か木造復元か解体か。木造復元を目指す名古屋城に続いて広島城も閉城となったが、先のことは何も決まっていない。耐震補強の岡山城はリニューアル後に入場者が増えた。木造復元は期待も高いが費用や手続きのハードルが高い。解体は安く済むが、やはり寂しい。いったいどうする?

岡山県浅口郡里庄町里見に「鳶尾(とびのお)城跡」がある。おそらくこんな櫓があったのだろう。時々、勢い余って模擬天守を建ててしまうケースがあるが、ここは良心的で復元想像図まで用意している。

山城の立地は眺望にあり。眼下を国道2号、JR山陽本線が通過し、先には名の知れた山城を望むことができる。青佐山城や竜王山城は毛利氏に忠実な細川通董ゆかりの城である。

細川通董が本拠とする鴨山城は北東4㎞程のところにあり、おそらくこの城も細川氏の管理下にあったのではないか。城の由来を記した石碑があるので読んでみよう。

鳶尾城古城址
由来
虚空蔵山地東南の支脈にある戦国時代の古城址。備中府誌によれば、当城の開基は大内左京大夫義隆、城代として井上伯耆守春忠在城す、と記されている。
城址は北から本丸、二の丸、三の丸と続き、南に大手を配し、北を搦手としていた。特に南は展望が開け茶臼山、青佐山とともに領国の境の城として絶好の場所であった。
天文年中、大内義隆は毛利元就など安芸、備後の国侍に備後南部への進攻を命じているが、毛利元就は大内氏滅亡後も、積極的に備中進出を図り毛利氏は次第に優位を確立した。
その後、毛利氏が備中の地侍を動員して九州に出陣した留守中に宇喜多直家や尼子勝久の軍勢が備中に進入を図ったが、引き返して来た毛利勢に撃退された。なお、井上氏は毛利氏の山陽方面での作戦を主に担当した小早川隆景の有力な武将であり、尼子・大友氏との戦いや石山本願寺への兵糧搬入などに功績のあった人物である。また別名「大原竜王」とも言われ、のちに干魃の年には地元の農民たちがこの城址に集まり、連日あかあかと薪を焚きながら雨乞いを行ない、農作物の被害を最小限に食い止めたと言われている。

江戸中期の地誌『古戦場備中府志』巻之五浅口八郷を確かめてみると、次のような記述があった。

鳶尾城 口林村
当城開基、大内左京大夫義隆。城主井上伯耆守春忠。

口林村は今の里見の一部、井上春忠は小早川隆景の重臣である。天文年間には大内氏が影響を及ぼしていたが、その滅亡後には毛利氏、特に小早川隆景が積極的に進出してくるのである。

ただ、上に引用した説明文中に、毛利氏の九州出陣中に宇喜多・尼子連合軍が備中に進出してきたとある。これは『中国兵乱記』『陰徳太平記』に基づいているようだ。確認してみよう。

『中国兵乱記』二「尼子晴久備中へ働き所々城を攻事」
元亀二年二月、備中国侍大将九州へ陣立の窺留守(るすをうかがい)、雲州尼子伊予守晴久為下知、尼子吏部・同刑部・大賀駿河守為大将六千余騎作州へ相働き、草苅黒岩等を攻随へ備中へ発向。

『陰徳太平記』巻第四十七「尼子勢備中国発向付毛利元清討植木資富事」
尼子勝久は、備中国を切り従へ、備後口より芸州へ切り入るべし、然らば宇喜田と牒じ合せばやとて、此旨を云ひ送られければ、直家も尼子の加勢に因りて備中を手に付けん事を悦び、頓て領掌して、大将一人差越され候へと返答せられける間、元亀元年正月中旬、秋上三郎左衛門綱平を将として、二千余騎指向けらる、

『中国兵乱記』は、元亀二年に尼子晴久が備中へ軍勢を差向けたとあるが、そもそも尼子晴久は既にこの世にいない。尼子氏再興を目指す尼子勝久なら、この時期も活動していた。

『陰徳太平記』は、元亀元年に尼子勝久が宇喜多直家と組んで備中を攻めようとしたとあるが、その当時、尼子再興軍にそんな余裕はなかった。

『中国兵乱記』も『陰徳太平記』も毛利氏関係者による軍記だから、強敵の尼子がやって来たけど頑張って撃退したぜ、というストーリーに見せたかったのだろう。

そもそもドラマチックに脚色されている軍記を、さらに面白くドラマにしたのがNHK大河である。史実の歪曲だとか様々に批判はあるが、エンタメだと割り切って観たほうが楽しいのではないか。

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