新羅征討計画はあったのか

大人気ドラマ「VIVANT」で中国の秘密情報組織が日本人を拷問する場面があった。これを中国紙が取り上げ、「中国を侮辱し、中国脅威論を誇張している」と批判している。ドラマですからご寛容のほど…とお願いしたいところだが、現在の日中関係を鑑みれば、わざわざ中国という実在する国を敵役にする必要があったのか、という意見も出ている。

現在の日韓関係は良好で何よりだが、古代最大のライバルは新羅であった。その昔、大和朝廷は任那日本府と称するほど組織的ではないものの、朝鮮半島南部に影響力を及ぼす地域を有していた。これが562年に新羅に滅ぼされてしまうのである。失地を回復し国際的地位を高めようとした聖徳太子政権は、どのような動きに出たのか?

糸島市志摩野北(しまのぎた)に「来目皇子(くめのみこ)遺跡」がある。こんもりとした小丘に石碑が建てられ、頂部には何やら石がある。来目皇子は聖徳太子の実弟である。

政権に近い重要人物が、玄界灘に臨むこの地と何の関係があるのか。太子が大きな一歩を踏み出したのは推古天皇8年(600)だ。我が国の外交史に残る大業、遣隋使の派遣である。統一中国と安定的な関係を築き、新羅に対する優越的な地位を占めたいと考えたのだろう。しかしながら、期待するほどの成果が得られなかったからか、『日本書紀』には記載されていない。

代わりに記されているのは、次のような内容だ。

八年春二月、新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲(おもほ)す。是の歳、境部臣(さかひべのおみ)に命(おほ)せて大将軍(おゝいくさのきみ)と為し穗積臣(ほづみのおみ)を以て副将軍(そひいくさのきみ)と為す〔並に名を闕(もら)せり。〕則ち万余の衆(いくさ)を将(ひき)ゐて、任那の為めに新羅を撃つ。是に於いて直ちに新羅を指して以て泛海(ふねから)往く。乃ち新羅に到りて、五の城(さし)を攻めて拔(え)つ。是に於いて新羅王惶(かしこ)みて、白旗を挙げて将軍の麾下(しるしのはたのもと)に到りて、立(たちどころ)に多々羅(たゝら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほつちき)、委陀(ゐた)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅羅(あらら)の六の城(きし)を割きて服(まつろ)はむと請ふ。時に将軍共に議(はか)りて曰く、新羅罪を知りて服(したが)ふ。強ゐて撃つ可(よ)くもあらじ。則ち奏し上る。爰に天皇更に難波吉師神(なにはのきしみわ)を新羅に遣し、復た難波吉士木蓮子(なにはのきしいたひ)を任那に遣して、並びに事の状(かたち)を撿挍(かむが)へしむ。爰に新羅、任那の二国の王、使を遣して調貢(みつきたてまつ)る。乃ち奏表(まをしふみたてまつ)りて曰く、天上(あめ)に神有(ま)す、地(つち)に天皇有す。是の二神(ふたはしら)を除(お)きては、何(いか)で亦畏(かしこ)きこと有らむ乎。今より以後(のち)、相攻むること有らじ、且(ま)た般柂(ふなかぢ)を乾さずして、歳毎に必ず朝(まゐ)こむ。則ち使を遣して、将軍を召し還す。将軍等新羅より至(まか)れば、即ち新羅亦任那を侵す。

推古天皇8年2月、新羅と任那が戦争になった。天皇は任那を救おうと考え、蘇我境部摩理勢(そがのさかいべのまりせ)を征新羅大将軍、穂積祖足(ほづみのおやたり)を副将軍に任じた。そして一万以上の兵を率いて新羅を撃つため渡海した。上陸して5つの城を攻め落とすと、新羅王は白旗を掲げて将軍のもとへ参り、多々羅、素奈羅、弗知鬼、委陀、南迦羅、阿羅羅という6つの城を引き渡すから降伏させてくれを申し出てきた。将軍たちは軍議の結果「新羅は自らの過ちを認めて服属すると言っている。あえて攻撃する必要はあるまい。」と考え、天皇に報告した。そこで天皇は難波吉師神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に派遣し、実情を調査せた。ここに至って新羅と任那の王は貢物を持った使いを派遣し、「天上には神さま、地上には天皇がいらっしゃいます。このおふたかたがおられないなら、どなたが尊いというのでしょう。今後は戦争を仕掛けることなく、船の梶が乾く間もないくらい毎年ご挨拶に伺います。」との上表文を差し出した。そこで使いを派遣して将軍を召し返した。ところが将軍らが去ると、再び新羅は任那を侵略した。

新羅側が低姿勢に恭しく振舞ったので、我が国はすっかり気分を良くして油断し、駐留軍も残さずに引き揚げた。その隙を突いて再占領した新羅のしたたかさ。すっかり裏をかかれた聖徳太子政権は捲土重来を期して新羅再征を決意し、威信を賭けて大物を将軍に据えた。抜擢されたのは太子の弟、来目皇子である。読んでみよう。

十年春二月己酉(つちのととり)朔、来目皇子を撃新羅将軍と為し、諸(もろもろ)の神部(かむとものを)及び国造、伴造等、并せて軍衆(いくさ)二万五千人を授けたまふ。夏四月戊申(つちのえさる)朔、将軍来目皇子(くめのみこ)筑紫に到りたまふ。乃ち進みて島郡(しまのこほり)に屯(いは)み、船舶(つむ)を聚めて、軍粮(いくさのかて)を運ぶ。六月丁未(ひのとひつじ)朔己酉(つちのととり)、大伴連噛(くひ)、坂本臣糠手(ぬかて)、共に百済より至(まか)る。是の時、来目皇子臥病(やみ)たまひて、征討(うつこと)を果さず。
十一年春二月癸酉(みづのととり)朔丙子(ひのえね)、来目皇子筑紫に薨(うせ)ませり。仍りて駅使(はゆま)して奏上(まをしあ)ぐ。爰に天皇聞しめして大に驚きたまひ、則ち皇太子と蘇我大臣とを召して、詔して曰く、撃新羅大将軍来目皇子薨(みう)せぬ、其れ大事に臨みて遂げず、甚だ悲しきかな、仍て周芳(すはう)の娑婆(さは)に殯(もがり)す。乃ち土師連猪手(はじのむらじゐて)を遣して殯事(もがりのこと)を掌(つかさど)らしむ。故(かれ)に猪手連(ゐてのむらじ)の孫(うみのこ)を娑婆連(さはのむらじ)と曰ふ。其れ是の縁(よし)なり。後に河内の埴生山(はにふのやま)の岡の上に葬る。

推古天皇10年2月1日、来目皇子を征新羅大将軍に任命し、祭祀を司る神部・国造・伴造を含め2万5千の軍勢を与えた。4月1日、将軍来目皇子が筑紫にやって来て志摩郡に駐屯した。船を集めて兵糧を運び、戦いに備えた。6月3日、対新羅で連携するため高句麗に派遣していた大伴咋、百済に派遣していた坂本糠手が共に百済から帰国した。しかしこの時、来目皇子は病に倒れ、新羅征討は中止となったのである。
推古天皇11年2月4日、来目皇子が筑紫で亡くなった。伝令が都に向かい天皇に申し上げた。天皇は大いに驚いてすぐさま聖徳太子と蘇我馬子を呼び出し、「征新羅大将軍来目皇子が薨去した。新羅征討の志を為し得ず、誠に残念である。」と言われた。来目皇子は周防国佐波郡(来目皇子殯斂地、防府市桑山1丁目)に仮埋葬され、土師猪手を派遣して仮埋葬の儀式を執り行った。このため猪手の子孫は娑婆連と呼ばれるようになった。来目皇子は後に、河内国埴生山(来目皇子埴生崗上墓、塚穴古墳、羽曳野市はびきの3丁目)に正式に葬られた。

聖徳太子政権は翌年、第三次征討計画を進めるが、結果的に何もできず終わることとなる。しかし新羅を仮想敵とするDNAは後代に受け継がれ、60年後の白村江の敗戦へとつながっていく。

ところで、そもそも推古天皇8年(600)の新羅征討は本当にあったのか、という大きな謎がある。というのも朝鮮の代表的な史書『三国史記』に記録されていないからだ。記録がないから史実ではないと言い切れないが、大きな戦争にもかかわらず記録がないのは不自然だろう。

史実でないとすれば、なぜ『日本書紀』に新羅征討が記述されているのか。平安前期成立の『令集解(りょうのしゅうげ)』という養老令の注釈書がある。そこには「古記」という大宝令の注釈書からの引用が含まれている。これは『令集解』巻三十一「公式令(くしきりょう)」からの抜粋である。

古記云、御宇日本天皇詔旨、対隣国及蕃国而詔之辞、問、鄰国与蕃国何其別、答、隣国者大唐、蕃国者新羅也

詔書において対等な隣国と格下の蕃国とはどこが該当するのか。隣国は大唐で、蕃国は新羅である。これが8世紀初めの我が国の外交スタンスであった。もちろん新羅が納得しているわけではない。ならば、新羅が我が国に服属したという事実を示して(捏造して)、自らの立場を正当化する必要がある。こうした考えに基づいて『日本書紀』が編纂されたのだろう。

とすれば、来目皇子が本当に征新羅大将軍として筑紫にやってきたのか、という点も気になる。皇子の駐屯があったから遺跡となったのか、『日本書紀』の記述に基づいて遺跡が生み出されたのか。地名との関係でいえば、来目皇子が来たから久米という地名となったのか、久米という地名があったから来目皇子が来たことになったのか、ということだ。

いずれにしても来目皇子を通して古代を偲ぶ貴重な史跡となっている。まずは一番大きな石碑から見ていこう。

今古俯仰之碑
玄洋社長
福岡市長
進藤一馬書
昭和五十九年四月吉日
久米区一同森村国郎建之

「今古俯仰(きんこのふぎょう)」とは、古今の歴史を見渡し雄大な歴史に思いを馳せることである。来目皇子ゆかりのこの地に相応しい言葉だ。玄洋社はアジア主義の政治団体で、アジア各国の自立に力を入れていた。今も後継団体が中野正剛や広田弘毅等の顕彰を続けている。

もともとあったのは「来目皇子遺跡」と刻まれた手前の石碑である。裏面に次のように刻まれている。

皇紀紀元千二百六十二年推古天皇の御代陽明天皇の第二皇子来目の御子約三万のつわものを率い征韓の途此の地に本陣を敷きたる地なり
後世の為之を記す
久米西氏子中
昭和三十四年一月二十日

皇紀1262年は西暦602年、推古天皇十年に当たる。来目皇子は、用明天皇と穴穂部間人皇女との間では、聖徳太子に続く第二子である。新羅征討に向けてこの地に本陣を敷いたという。ただし、ここは陣地に適した平坦な土地ではなく、小さな円墳にも見える。

詳しい説明板があるので読んでみよう。

来目皇子遺跡
この地は、用明天皇の皇子で、聖徳太子の実弟、来目皇子ゆかりの遺跡である。
日本書紀によれば、来目皇子は、六〇二(推古十)年に「撃新羅将軍」となり、諸神部(かんとものお)および国造・伴造ら軍衆二万五千を率いて筑紫の嶋郡に船舶を駐屯させ軍糧を運んだが翌年病気を患い同地で没した。よって、土師猪手(はじのいて)が遣わされ、周防娑婆(さば)(山口県佐波郡)で殯(もがり)をおこない、後に河内埴生山崗(大阪府羽曳野市塚穴古墳)に埋葬されたという。
この時、来目皇子が率いた軍の本営地、あるいは皇子の仮埋葬地とも伝わるのがこの地である。
ここより北に斜面を下ったところにある久米集落の鎮社久米神社には、海神三神とともに来目皇子が祀られており千四百年以上たった現在もなお、地元の人々から熱心な信仰をあつめている。
久米集落を中心とした火山北麓一帯には、「大館庁」・「小館庁」・「射手(井手)」など、皇子屯営の頃より伝わるとされる地名が残る。
また、久米集落より北西の丘陵上にある久米遺跡では、弥生時代中期(約二千百年前)の甕棺墓より細形銅剣・銅戈が出土するなど、有史前より玄界灘に面した海上交易の要衝として、この地が繁栄していたことがわかっている。
糸島市・糸島市教育委員会

前半は『日本書紀』の内容と同じ。この地は軍の本営地あるいは皇子の仮埋葬地と考えられているようだ。朝鮮半島に進出しやすい位置であるとともに、先進文化が伝わりやすい場所だったのである。

若い頃に流行っていたBCLでラジオ韓国は近いからよく受信でき、看板番組の「玄海灘に立つ虹」をよく聴いていた。タイトルは虹を友好の架け橋に見立てているそうだ。

近いだけに仲良しだがトラブルも多い。過去には痛惜の念を禁じ得ない不幸な出来事もあった。来目皇子は志半ばで亡くなったものの、日韓の歴史に不幸な記録を残すことはなかった。明治40年に当時の皇太子(後の大正天皇)が大韓帝国を訪問したことはあるが、現代にいたるまで天皇の公式訪問は実現していない。大きな大きな課題である。

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