20年を経て解決された水争い

先日、香川用水記念公園に行き、阿讃山脈を抜けた水が勢いよく流れ出しているのを見た。高松砂漠とも呼ばれた異常渇水を経験した香川県民にとって、一日千秋の思いで渇望していた命の水であった。いっぽう徳島県側では水量が減少することへの懸念が示され、導水計画が順調に進んだわけではない。

今も徳島県の既得水利権が最優先され、香川用水などの新規利水は渇水時に厳しい制限を受ける。水利においては利害の対立から争いが発生することがよくあり、一定のルールを設けている場合が多い。本日はそのルールがよく分かる史跡を紹介しよう。

姫路市西庄(さいしょう)と東今宿三丁目の境あたりに「大井川分水堰」がある。

左岸は右岸に比べて広い。これが話し合いの結果なのだろう。「姫路市文化財見学シリーズ23『荒川地区』を訪ねて」には、次のように解説されている。

大井川分水堰
琴丘高東、明治9年から20年以上にわたった大井川水論和解の分水堰。川下に向って左側側面に「明治三十年六月 川巾七尺」右側側面に「明治三十年六月 川巾三尺二寸」と施刻。長さ2.36m、巾36cmの舟型分水堰。土山地区と西庄地区に7:3の割合で分水されている。以降、紛争防止のために地蔵講をつくり、監視機関とした。

確かに側面には文字が刻んである。写真で見えているのは左側側面だ。対立の当事者は土山地区と西庄地区。土山が7、西庄が3の割合で決着した。左側の用水路は東へと向かい土山地区へ、右側の用水路は南へと向かい西庄地区へと水を運んでいる。

土山地区の割合が多いのは面積が大きいこともあろうが、江戸時代に庄村(明治になって西脇村と合併して西庄村)が分村したという経緯も影響しているかもしれない。分水堰の両側面に川幅を明記し、それを守る仕組みづくりも行われた。

香川用水以前の讃岐地方でも、水利総代や水引きという役目が設けられ、ため池などの貴重な水を慣行に従って配分していた。湯水のごとくという表現があるが、決して思い通りにならないもの、それが水である。

コメント

タイトルとURLをコピーしました