菊池寛『形』は身形が相手に与える影響を見事に活写した小品である。また、一休禅師は粗末な身形で軽んじられたが、格式高い法衣を纏うと丁重に扱われた。この時、禅師は「お前たちがもてなしているのは、この服だろう!」と喝破した。さらに、水戸黄門は身分を表す印籠が状況を一変させる痛快時代劇である。人はいったい何を恐れ何に頭を下げているのか。

姫路市井ノ口の佛日山法輪寺は「湯沢山茶くれん寺」と呼ばれている。臨済宗妙心寺派(龍泉派)である。
この別称は「湯ばっかり出しやがって、お茶はくれんのかい」と言って名付けたと聞いたことがある。どこのお寺かと思っていたが、ここだったのか。門前に沿革を記した掲示があるので、伝承の部分を読んでみよう。
湯沢山茶くれん寺伝承(播陽里翁説-宝暦年間・天川友親)
秀吉公、英賀城攻めの時、町ノ坪の宝林寺(法輪寺)では、兼て秀吉公、御立寄なさるべしと、鑵子(茶釜)に茶をたぎらせて雑兵に手をつけさせぬよう、鑵子の環に蓋をくくりつけおきける。その時、秀吉公軽々しき平侍の体にて御立寄、茶の所望あり、住僧はじめ秀吉公と存ぜずして白湯(さゆ)を差上げければこの鑵子の茶を呑ますべしと仰せられける、庄屋罷(まか)り出で此茶はもし秀吉公御立寄もあらば差上げ申さんとこのようにいたしおき候、そのもと様には進ぜがたしと申す。秀吉公打笑い、我こそ秀吉と仰せければ、庄屋仰天して、さては左様に御座候かと早速お茶を差上ぐ。
それにつき秀吉公、戯れて湯沢山茶くれん寺という寺号を遣すべしと仰せられける。またこのときあわせて九石九斗九升九合の御朱印を賜わりけると云々。
境内の榧の木は秀吉公御来訪を記念し、山主が植えし老木と今に申伝えている。
「播陽里翁説」は播磨の地誌で『播陽万宝智恵袋』に収録されている。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。秀吉だと分かって驚いた庄屋がお茶を差し上げた後に、こんなやり取りがあった。
「侍になる望みがあれば召し抱えてやろう」
「やはり百姓ほどよきものはございませんので…」
「屋敷の大きさはどれほどか」
「五間四方でございます」
「ならば十石の田地屋敷をやろう」
「九石九斗九升九合にしていただけませんか」
「なぜじゃ」
「十石に達すると将軍さまにご奉公に出ねばなりませんので、一合はご辞退いたしたく存じます」
庄屋の分相応な生き方が印象に残る封建社会の微笑ましいエピソードである。これは毛利と結んだ三木通秋が籠る英賀城を秀吉が攻めた時のことだ。天正八年(1580)である。

境内には腰掛石と大きなカヤの木、そして説明板がある。読んでみよう。
秀吉の腰掛石
天正八年(一五八〇)、羽柴秀吉公、英賀城攻めの時、法輪寺(宝林寺)に立寄り、茶を所望された。
その際、この石に腰掛けられて接待をうけ、談笑しながら茶を賞味されたと伝える。以来、当寺は「湯沢山茶くれん寺」の名で知られる。永い歴史の中に、当初の腰掛石もいつしか消滅していたが、平成二五年(二〇一三)、大河ドラマ「軍師官兵衛」に因み、竜山石(高砂市)を使って改めて再現したものである。
官兵衛は秀吉公の命により当寺の南東三〇〇メートルにあたる町坪構居(英賀支城)を攻略した。
なお、庭内の榧の木は秀吉公来寺を記念して、当寺の住職が植樹したものと伝え今に至っている。
平成二五年六月吉日 法輪寺史跡保存会
大河『軍師官兵衛』放映を記念して再現された腰掛岩である。いっぽうカヤの木は当時の記念植樹というから、樹齢450年くらいなのだろうか。
ただし、湯沢山茶くれん寺伝承は他にもある。天正十年(1582)の山崎合戦の際、やってきた秀吉の軍勢にたくさんのお茶が準備できず白湯を提供した寺がある。八幡市橋本中ノ町の西遊寺とも同市橋本北ノ町にあった旧常徳寺とも言われている。
また、天正十五年(1587)に催された北野大茶湯の帰りに立ち寄った秀吉に、未熟なお茶では失礼だとお寺に湧く名水を白湯にして差し上げた寺がある。京都市上京区南上善寺町の浄土院である。
面白い話だから秀吉ゆかりの地に伝播したのかもしれないし、茶目っ気のある秀吉が各地で「お茶くれせんの?ほんなら『茶くれん寺』と名乗ってちょーよ!」と同じネタで笑いを取ったのかもしれない。


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