若い人は死んではならない。「人生は死ぬことじゃない。生きることだ。これからのものは、何よりも生きなくてはいけない。」次野先生の言うとおりだ。しかし、若くして非業の死を遂げた人は少なからずいる。本日は、遠州の地で亡くなった領主の御曹司の史跡を紹介する。



掛川市久保一丁目の遠江塚公園に「旧跡 遠江塚」がある。
石塔は風雨に耐えながら、古い時代の記憶を今に伝えようとしている。その記憶とは、門扉に輝く葵の御紋だ。やんごとなき御方のようだが、いったい誰に関係するのだろう。説明板を読んでみよう。
遠江塚
所在地
掛川市久保一丁目一四〇
説明
掛川城主松平隠岐守定勝の嫡子遠江守定吉が慶長八年(一六〇三年)十一月十一日十九才で切腹自決し、これを供養するため造られた塚で、五輪塔が建てられました。また、定吉の廟所は市内仁藤の真如寺にあり、同寺の「松平遠江守定吉画像」は県の指定文化財となっています。
なお、切腹の理由は定かではありませんが、田宮虎彦の『鷺』という小説によって世に知られています。
掛川市教育委員会
久保区
松平定勝はなんと、徳川家康と母を同じくする弟である。二人の母、於大の方は松平広忠に嫁いでいたが、実家水野氏が織田氏についたため、今川氏に属していた夫から離縁された。その後、久松俊勝に再嫁し3男4女を儲けたが、その一人が定勝だったのである。
本日の主人公、定吉は定勝の嫡男だから、血筋は言うことなしだった。なのに19歳にして切腹するとは、よほどの事情があったのだろう。ストーリーは田宮虎彦の『鷺』という小説を読めば分かるが、江戸時代の文献に元ネタがあるはずだ。
調べてみると『遠江古蹟圖會』(享和三年)と『遠淡海地志(とおとうみちし)』(天保五年)に記載されていることが分かった。ただ翻刻したものが手元にないので、掛川城で購入した『掛川城のすべて』を参考にさせていただこう。
東海道の新居の渡船場で将軍家康と定吉は同船した。その時船上はるか高く一羽の鳥が飛来したのを見て、あの鳥を誰か射る者は無いかと誰かが叫んだ時、弓矢の自信のあった定吉は弓矢を取出して中天の鳥を目がけて射たところ見事命中したので、同船の多くは定吉の技量の非凡さを称したが、家康一人これを喜ばず、若し射損じた時はどうするのかとその粗忽の行為をたしなめたから、定吉は将軍家康に嫌われたと早合点して自害をした。
定吉は射損じたら「てへぺろ(・ω<)」くらいで済ませるノリだったのかもしれないが、その軽さこそ一国を預かる武将には相応しくないと家康は指摘したのだろう。嫌われたと思って自滅するようなメンタルの持ち主なら、とても政治家は務まらない。ただし、定吉の自害から二百年後に書かれた地誌である。話に尾鰭が付いていることだって十分ありうる。
確かなのは、父定勝の悲しみが大変深かったことだ。廟所の真如寺に息子定吉の肖像を描かせて奉納し、それが現在も伝わっている。目がクリっとした印象的な顔立ちで、純粋な心の持ち主に見える。もうしばらく時を待って、大坂の陣でひと暴れすれば家康から褒められたであろうに。

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