なちじんぬぐしくしむないぬくにぶ

昭和五十年代に『歴史読本』という雑誌をよく買っていた。各地の城を紹介するシリーズの中に「今帰仁城(なきじんぐすく)」があり、こちらではあまり見かけないうねうねとした城壁がカラーで紹介されていた。以来、知ってはいたが行く機会がなく、何十年も過ぎてしまった。

沖縄に行ったなら琉球王国の史跡を巡ろう、と強く思っていたところ、先年の旅行でついに今帰仁城訪問が実現したのである。地域的に偏向している本ブログの史跡紹介だが、今回初めて沖縄県からレポートする。

沖縄県国頭郡今帰仁村今泊(いまどまり)に「今帰仁城跡」がある。今泊は今帰仁と親泊の合成地名で、親泊は今帰仁城の外港であったという。

国の史跡であり、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産でもある。特に国の指定は昭和47年5月15日という沖縄復帰の日であり、沖縄を代表するとともに我が国の誇りとして高く評価されたことが分かる。その時代の説明板が入口にあるので読んでみよう。

史跡 今帰仁城跡 昭和47年5月15日 国指定
この城は、築城年代については明らかではありませんが、1322年頃怕尼芝(はにじ)が城主となり、その後攀安知(はんあんち)にいたる94年間で大修築をうけ、今日の規模に達したようです。尚巴志によって滅ぼされた1416年直後、この城には首里の王権が北山地方を掌握するために北山監守が置かれました。城内にはその由来を刻んだ「山北今帰仁城監守来歴碑」(1749年建立)が現存します。
城郭は最高所の主郭を中心とした連郭式で、西側から東側に大隅(うぅしみ)、大庭(うみやぁ)北殿跡、御内原(ううちばら)そして本丸と続き、さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。
この今帰仁城跡は、歴史が古く規模の雄大な遺構がよく残り、特に外郭の石垣が大きく、屏風形の曲線を描いていて沖縄屈指の名城たる風格を備えています。
沖縄県教育委員会 昭和53年3月31日

「規模の雄大な遺構」の代表格「屏風型の曲線」を描く石垣こそ、今帰仁城を代表する風景だ。

城内を進んで大庭(うーみゃー)に入ろう。ここには琉歌の歌碑がある。八八八六の三十音構成が琉歌の特徴である。

この碑は1959年6月に琉球政府文化財保護委員会によって建てられた。どのような歌なのか、説明板を読んでみよう。

志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
今帰仁の城 しもなりの九年母(くにぶ)
志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい
大意:今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に「乙樽」という美女がいました。黒髪が美しい乙女の噂は国中に広がり「今帰仁御神」と呼ばれ時の山北王も側室として仕えさせました。なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎを授かることばかりを祈っていました。やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの蜜柑が実ったことに例え、子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。

確かにそうだ。子供のはしゃぐ声こそ平和の象徴である。人にも国家にも栄枯盛衰はつきもの。繁栄した平和な時代の記憶は、これからも地域のアイデンティティとして繰り返し思い起こされるであろう。

絶景とはこのような場所を指すのだろうか。撮影スポットとして知られる「御内原(うーちばる)」から見た眺めである。見えているのは大隅(うーしみ)郭である。兵馬の訓練を行っていた場所だという。向こうの石垣を外から見たのが2枚目の写真だ。

御内原(うーちばる)
北殿跡の北側にある一段高いところを御内原と呼んでいます。 この場所は伝説では女官部屋があったと伝えられており、城内で最も重要な御嶽(うたき、イベ)があります。
特に御内原の北端からの眺望は、城内で最も開けていて今帰仁城跡の城壁のほぼ全てを望むことが出来ます。また国頭(くにがみ)の山並みや離島の伊平屋(いへや)・伊是名(いぜな)島を眺めることもできます。特に晴れた日には、沖縄本島北端の辺戸(へど)岬の先22km洋上にある与論島(鹿児島県大島郡)を見ることが出来ます。

これは「御内原」の説明板の内容だ。眺めを堪能したら主郭へと進もう。

火の神様「ひぬかん」が鎮座している。城の主が去った今でも信仰の場所として大切にされている。このような場所を里主所という。説明板を読んでみよう。

今帰仁里主所(さとぬしどころ)火の神
この祠は「今帰仁里主所火の神」と呼ばれ、第二尚氏時代の北山監守一族の火の神が祀られています。琉球土着の信仰において、火之神は火を司る神様です。火は家とそこに住む人々を守ると信じられており、今日でも多くの沖縄の家では台所に火之神を祀ったりしています。
北山監守は1665年に首里に引き揚げますが、かつての根所(旧宅地)の火の神として崇められてきました。旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀を現在も行っています。この火の神の祠は戦後に改築したもので城跡の整備事業に伴い現位置に移されました。祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中(むんちゅう)の行事であ今帰仁上り(ぬぶい)の重要な拝所(うがんじゅ)として参詣者が絶えません。

ここで注目したいのは、建物の前にある古い石碑だ。

刻字は今も明瞭で、よく読み取ることができる。まずは説明板を読んでみよう。

山北今帰仁城監守来歴碑記(県指定文化財)
今帰仁按司(あじ)十世宣謨(せんも)が、1749年に首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、故地を顕彰すべく建立しました。今帰仁監守は尚巴志が1416年に山北王を滅ぼした5年後に第二子尚忠を派遣に始まり、その後、尚真王代に第三子尚韶威(しょうい)を派遣し、以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めました。
碑文の内容は、三山時代の事績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、後世の子孫に伝えるための顕彰碑となっています。同碑文は保存状態もよく琉球王国時代の地方監守の歴史を知る上で貴重な資料です。

この説明文を理解するには、入口にあった説明板の内容も思い起こすとよいだろう。1322年以来、怕尼芝(はにじ)、珉(みん)、攀安知(はんあんち)と三代の国王のもとで北山王国が栄えた。志慶真乙樽の歌は、この時代の象徴である。

ところが1416年、後に統一王国を築く尚巴志によって滅ぼされる。北山には反乱を防ぐため「監守」が置かれた。明の弘治年間(1488〜1505)に任じられた尚韶威(今帰仁朝典)からは世襲となり、その子孫が顕彰碑を建立したのである。碑文を翻刻してみよう。

山北今帰仁城監守来歴碑記
昔者球陽諸郡四分五裂終成三山鼎足之勢万民不堪塗炭之憂
佐敷按司巴志大興義兵匡合三山而致一統之治然山北諸郡地係嶮咀人亦勇猛
離中山遠教化難敷恐復恃嶮咀而生変乱乃遣次子尚忠監守永為定規至
徳王耽酒色好殺戮国政日壞臣民皆叛遂招覆宗絕祀之禍時
尚円王為臣民所推戴就位莅政大開万世之基業亦遣大臣輪流監守弘治年間
尚真王遣第三子昭威監守乃吾元祖也自爾而来世鎮北城永守典法北人愈懼愈服大
致雍熙之休矣而康熙四年七世従憲奉
命移宅於首里仍掌北城及旧跡典礼等件至于乾隆七年将以城地改授郡民行其典
礼由是宣謨具疏稟明往事恭蒙兪允永管城地掌典礼如旧伏惟元祖以来鎮守山
北以致純治者是誠宗德宗功之所累而吾家孫子亦不可以不重焉者也宣謨謹記
来歷以勒諸石永伝不朽云
皇清乾隆十四年己巳秋八月榖旦十世宣謨今帰仁王子朝忠謹立

むかし、琉球の諸郡は四分五裂して、ついには三山(北山、中山、南山)が鼎立する状況となり、万民は塗炭の苦しみにあえいでいた。
これを見かねた佐敷按司(南城市佐敷あたりの領主)である尚巴志(しょうはし)王が挙兵して三山を統一した。ところが山北諸郡は地が険しく住民も荒々しく、中山から遠いために教化しがたい。地の険しさをいいことに、また反抗するとも限らない。そこで次子尚忠を監守として今帰仁城に派遣し、統治の仕組みとして続けることとした。
尚徳王は酒色にふけり殺戮を好んだので国政は乱れ、臣民はみな命に背き、国家存亡の危機に陥った。
尚円王は臣民の推戴により王位に就いて政務を始め、新たな世を開いたのである。弘治年間には大臣を交代で監守として派遣していた。
尚真王は第三子の昭威(韶威)を監守として派遣した。私今帰仁朝義(なきじんちょうぎ)の先祖である。これより世は鎮まり山北の地も法令に従い、人々も服従して楽しく暮らすようになった。
康熙四年(1665)には、第七代監守向従憲(今帰仁朝幸)が命により首里に移住したが、今帰仁城の管理や祭礼を引き続き担当した。乾隆七年(1742)には、城地を改めて郡民に開放し祭礼を行わせることとした。
こうしたことから私尚宣謨(今帰仁朝義)が、来歴を詳しく記して申し上げたところ、かつてのように末永く城地を管理し典礼をつかさどる旨が聞き入れられた。
初代以来山北の地を守りよく治めることができたのは、歴代の誠実さや人徳、積み重ねた功績による。であれば我が家の子々孫々も功を重ねないわけにはいかない。私尚宣謨(今帰仁朝義)は謹んで来歴を記して石に刻み、永く不朽に伝えようとするものである。
乾隆十四年(1749)八月吉日 第十代尚宣謨(今帰仁朝忠=のち朝義に改名)謹んで建立

尚徳王をずいぶん悪く言い、尚円王を持ち上げている。現王朝の正当性をアピールする公式見解であるが、実際にはクーデターであったという。ともかく成化5年(1469)第二尚氏王統が始まり、その後長い歴史を歩むこととなる。

康熙四年(1665)に北山監守はその役割を終えた。7代にわたる監守であった今帰仁家は、地域振興に努めたことを誇りに思い顕彰碑を建立した。地域の守り神である火神前に顕彰碑があるのは、そういうことなのだろう。領民の信仰を保護し祭礼を盛んにするのは、人心掌握術の基本である。

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