歴史の叙述にしろ大河ドラマの人物造形にしろ、善人か悪人か、二元論で描きがちだ。しかしかつて伊勢正三が歌ったように、ささやかなこの人生を喜びとか悲しみとか言葉で決めるのは違う。
梶原景時は、英雄義経に対するヒールとして描かれるだけでなく、三浦義村による次のような人物評がイメージ形成に大きな影響を与えている。『吾妻鏡』正治元年十月廿七日条より
凡文治以降、依景時之讒殞命失滅之輩、不可勝計、或于今見存、或累葉含愁憤多之、
幕府草創期から景時の讒言によって命を落として消え去った者は数えきれないほどだ。今生きている者であれ、その子孫であれ、憤慨している者は多い。
将軍家には気に入られていたが、仲間には不快に思われていたようだ。のちの石田三成のイメージが重なる。では、中央政界の人はどう見ていたのだろうか。『愚管抄』巻六より
コレヨリ先ニ正治元年ノ比。一ノ郎等ト思ヒタリシ梶原景時ガ。ヤガテメノトニテ有ケルヲ。イタク我バカリト思ヒテ。次々ノ郎等ヲアナヅリケレバニヤ。ソレニウタヘラレテ景時ヲウタントシケレバ。景時国ヲ出テ京ノ方ヘ上リケル道ニテウタレニケリ。子供一人ダニナク。鎌倉ノ本躰ノ武士梶原皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ。ハタシテ今日カカル事出キニケリ。
頼家暗殺に先立つ正治元年の頃、第一の郎党を自ら任じていた梶原景時は、頼家の乳母夫となっていたことから、自分だけは特別と考え、他の郎党を軽んじる態度をとった。そのため訴えられ、討たれそうにもなったので相模から出奔したものの、京へと向かう途上で討たれてしまった。子供も皆殺しで、鎌倉武士の鑑というべき存在であった梶原景時の一族は滅んだ。このことは頼家の力量のなさだと人々は思っていたところ、やはりというべきか暗殺されてしまった。
人物的に難があるように書かれているが、「鎌倉の本体の武士」つまり組織人として力量があると評価されている。そんな景時ゆかりの宝篋印塔が美作にあるという。行ってみよう。

真庭市杉山に市指定文化財の「宝篋印塔」がある。
端正なフォルムの石塔である。四隅の突起は時代が下るほど反るというから、これはどうなのだろう。真庭市教育委員会『真庭市の文化財』を読んでみよう。
杉山公会堂の西側にあります。相輪、笠、塔身、基礎から成ります。自然石を積んだ基壇の上面に板石を置き、その上に直接方形の基礎を設置しています。基礎の四面には格狭間(こうざま)が彫刻され、塔身の四面には四方仏の種字を刻んでいます。笠にはやや外反する隅飾突起(すみかざりとっき)をもち、室町時代の特徴を示しています。総高157cmを測ります。美作国守護であった、梶原景時の供養塔と伝えられています。
宝篋印塔の美しさを解説しているのかと思ったら、最後の一文が強烈だ。鎌倉から遠く離れた西国で梶原景時にお目にかかれるとは。『吾妻鏡』元暦元年二月十八日条には、次のように記されている。
武衛被発御使於京都、是洛陽警固以下事所被仰也、又、播磨、美作、備前、備中、備後、已下(上)五箇国、景時実平等、遣専使可令守護之由云々
頼朝は使者を京都に派遣して洛中警固を義経に命じ、播磨・美作・備前・備中・備後、以上五か国に梶原景時と土肥実平を守護として遣わした。
さらに、建久二年閏十二月二十五日条には、京の徳大寺實定が亡くなったことを聞いた源頼朝の言葉として、次のような一節がある。
景時者依幕下御吹挙、先年為美作国目代云々、
景時は頼朝公によってご推挙され、先年美作国の目代となった。
また、文治元年十二月六日条には、平家滅亡後の沙汰で「美作 實家卿同(可給也)」とあり、美作国が實定の弟實家に与えられたことが分かる。それゆえに美作には徳大寺家の伝説も残っている。
中央政界の動きが地方に記憶として残り、その縁を今も見ることができる。守護所があったのは院庄だが、ここ杉山で梶原景時が語られたのはなぜだろう。有能ながら悲劇的な最期を迎えた鎌倉武士を美作の地が受け入れている。

コメント