自然公園の巨大岩と城跡

「そはとまれかくまれ八丈と云ふ島の名は、かの八丈絹よりぞ出つらむかし。」
本居宣長は『玉かつま 十一の巻「八丈絹」』にそう記している。あの美しい黄八丈が「八丈島」という島名の由来だという。八丈島特産だから黄八丈だとみんな思っているようだ、と宣長は指摘しているが、私もそうであった。八丈絹とは一般名詞で、一匹の長さが八丈(約24m)の絹織物を指す。

八丈といえば、岩の名前でもよく見かける。地理院地図で検索すると、福山市の八丈岩、岐阜県揖斐川町の八丈岩、岡山市南区の八丈岩山、姫路市の八丈岩山が示された。本日は地理院地図にはないが、天空の八丈岩である。この八丈は長さというより「大きな」くらいな意味だろう。

高梁市落合町阿部、落合町原田に広がる高梁自然公園のあたりは「井谷峡」あるいは「井谷渓谷」と呼ばれている。

高梁市内は高梁川や成羽川沿いはよく通ったが、なかなか山中に入る機会がなかった。落合町阿部の中心にある井谷交差点を曲がって北へ向かおう。坂道をどんどん上っていくと、自然公園の駐車場があり、そこに説明板がある。読んでみよう。

井谷峡
落合町阿部井谷
北の松原町神原付近を源とする井谷川は水清く、水量も豊富で地域の住民は飲料水、生活用水、阿部平野の灌漑用水として恩恵を被ってきた。
谷の両岸の山々は急峻な花崗岩の奇岩、怪岩が屹立し春は桜、夏は青葉、若葉でおおわれ、秋は紅葉で全山が彩られ四季を通じて松の緑と花で美しい景観を見せ、谷の下流では蛍の乱舞が人々を魅了する。散策には最高の渓谷であろう。
流域の山々や谷川は近世からの聖なる信仰の場所で、弘法大師や不動明王、そして観音信仰の霊場があり、遠方よりの信者のお参りが絶えない。また、上流には曹洞宗深耕寺を中心にした花山法皇の伝説もあって、まさに阿部の奥にある山「深山(みやま)」なのである。
山上には寛永二年(一七九〇)にできた新城池があり農業用水として利用され、阿部の農民にとっては、水利慣行の重要な池で、阿部の四十町歩の灌漑をする落合町では最も大きな池である、周辺は景色もきれいでピクニックやキャンプ地としてにぎわう。
池の南には、戦国時代松山城に居た三村元親が毛利によって、滅ぼされ松山城から、夜、阿部深山城へ逃れ来たという砦跡がある。
そして、聞くも悲しい乳母と姫の哀れな物語を秘める八畳岩を初め、牛突岩、観音岩など珍しいかぎりで、山頂の観音堂や不動の滝、お籠り堂など行者の姿も見られ観音霊場もある。環境に恵まれた井谷渓谷は、江戸時代から昭和の初めにかけ、地元の人々の経営による水車工場が、十二軒あって稼動し、精米、製粉、うどん、そうめんなどの製品を高瀬舟やトラックで京阪神方面へ売り出す問屋制家内工業の工場地帯だった。コットン、コットンという優しい響きが聞こえ、心をなぐさめてくれていたのである。
(落合地域まちづくり推進委員会)

人文面でも自然面でも豊かさを誇る深い山、深山である。分け入っても分け入っても、歩きやすい遊歩道が整備されている。説明板の八畳岩は、実際には八丈岩と書くようだ。上から見るとヘリポートみたいなその岩に行ってみよう。

高梁市落合町阿部に「深山八丈岩」がある。下がどのように見えるのか、怖くて確かめられない。

この岩には聞くも悲しい伝説があるという。岩から下へ降りると説明板があるので読んでみよう。

八丈岩についての言い伝え
昔この地方に、ある豪族が住んでいました。そこには一人の心のやさしい乳母がいて、その家の子供を育てていました。ある日、乳母と子供はこの岩の上で遊んでいましたが、子供が誤って下に落ちて死んでしまいました。
乳母はたいへんなげき悲しみ自分の乳をしぼって子供の落ちた所に流してやり、主人へのおわびのため、この岩の上から身を投げました。この岩の中程についている一筋の細い溝は、その時の乳が流れた跡だと語りつがれています。
環境省・岡山県

豪族の名前は伝わっていないが、中世であれば屋敷や城を構えていたことだろう。高梁自然公園の案内図をよく見ると「トリデ跡」という表示がある。行ってみよう。

谷を渡って西側の峰に「阿部深山(あべのみやま)城跡」がある。「トリデ跡」の表示が素朴でうれしい。南側は急斜面だが、北西にもう一つの峰がある。その斜面からの侵入に備えて竪堀が2本設けられている。下の写真がその一つである。

こんな山深い場所、しかも集落からの比高240mの砦を攻める敵がいるのか、と訝しく思いながら南方面に目をやると、来がけに車で曲がった井谷の交差点が見える。

東の松山と西の成羽を結ぶ成羽往来を監視する役割があったのだ。山城の存在意義は眺望にあり。敵の動向をつかむことが最大の防御である。

三村氏と毛利氏の激突を描いた『備中兵乱記』「元親落阿部山事」には、次のような記述がある。

年頃召使ひける同朋児阿弥・中間加介は元親退出あれども不知由にて夜廻りせしが、いつの間にか追付きけん、つゝと寄て元親の手を引立て肩にかけ、児阿弥・加介・弥介・石田・内田主従六人、高橋川を打渡り阿部山差して入りにけり。

『日本城郭大系13広島・岡山』新人物往来社の「阿部深山城」の項はこの場面を紹介し、松山城を追われた三村元親が逃げ込んだ場所と見ている。身を隠すには都合のよい深い山である。

いっぽう、加原耕作編著『新釈備中兵乱記』山陽新聞社は、同じ場面の注釈で「現高梁市阿部町の稲荷山か。」と記している。稲荷山は落合町阿部と落合町近似(ちかのり)の境にあって、城跡は確認されていないが、松山城の動向を把握するにはよさそうだ。

『備中兵乱記』「元親最後之事」には、次のような一節もある。

修理進元親は弥介が討死せしとは不知、検使を請来らん今や遅しと待暮す。余りに無覚束思ひつゝ小高き所に上がり四方を見廻せば、松山程近く見ゆる

この描写からは、阿部深山よりも稲荷山の方が妥当に思える。元親は覚悟を決めて愛着ある松山の城下に戻り、樵夫に自分の居場所を毛利方に知らせるよう言った。切腹に当たり毛利方の大将小早川隆景からの検使に、次のように告げたのである。

検使の旁々愚意の趣隆景へ御物語候へ。今度謀叛を企る事、亡父家親の為め宇喜多に欝憤を存ずる事、曾て以て無紛、吾亡父の為なれば天道に背くにも非じ。偏に武運の薄き事を恨むる也。

検視の方々、私の思いを隆景公にお伝えくだされ。このたび毛利氏と戦うこととなったのは、宇喜多に父家親を殺された恨みがあったからだ。これは紛れもないことであり、亡き父の為であれば天道に背くこともないだろう。ただただ武運がなかったことを悔しく思う。

永禄十年(1567)三村元親は、倶に天を戴かざる敵、宇喜多直家を倒すため備前に大軍で進攻したが失敗する。その後も毛利氏の援護で宇喜多を倒そうとしたもの上手くいかない。さらにあろうことか天正二年(1574)、宇喜多が毛利と誼を通じたのである。ならばと元親は織田氏と結び、あくまでも宇喜多を倒そうとする。これにより毛利氏は小早川隆景に三村討伐を命ずる。備中兵乱である。

そして元親は、本拠松山城を落とされ、阿部深山か稲荷山をさまよった後、城下に戻って切腹を遂げた。私としては、できれば阿部深山に隠棲して生き永らえてほしかった。八丈岩に立つ元親の眼差しは、恩讐の彼方へと向けられたに違いない。

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