藤原道長は歓喜の絶頂だった。一条天皇に嫁いだ娘の彰子が、待望の男子を産んだのである。『紫式部日記』は次のように伝えている。
或時は、理(わり)なき事(わざ)しかけ奉り給へるを、御紐引解きて、御几帳(みきちやう)の後にて焙らせ給ふ。「あはれ、此の宮の御尿(おんしと)に濡るゝは嬉しき事(わざ)かな、此の濡れたる焙るこそ、思ふやうなる心地すれ」と、悦ばせ給ふ。
ある時は若宮におもらしされたのだが、自ら服の紐を解き、御几帳の後ろで火にあぶって乾かした。「ああ、若宮のおしっこに濡れるのはうれしいことだ。濡れた服を火で乾かしていると、思いがかなった気分になるぞ」と喜んでおられた。
まさに目に入れても痛くないって感じだ。三条天皇の代となって若宮が成長すると、道長は天皇に圧力をかけ、長和五年(1016)ついに、若宮の即位を実現したのだ。後一条天皇である。道長は摂政に就任した。そして、この年の秋、大嘗祭が盛大に執り行われた。

岡山県加賀郡吉備中央町上竹(かみたけ)の大村寺に歌枕「大村山」がある。
石碑には「君が代はねさしとゞむるとみ草の大むら山に見ゆるたのしさ」と刻まれている。新帝の御代は、大村の大地にしっかり根を張る稲を見るように、豊かで頼もしく感じられることだ。説明板を読んでみよう。
名所 大村山の歌
後一条天皇即位の長和五年(一〇一六年、平成十一年より九八三年前)に善滋朝臣為政の歌として大嘗会和歌集にある。
天皇のご即位の時、大嘗祭のため悠基田、主基田がつくられる。悠基田は近江の国、備中では主基田がつくられました。後一条天皇の時の主基田の祝歌としてこの「大村山」が詠進されました。
この歌は、後一条天皇の大嘗祭における主基風俗歌なのである。詠んだのは慶滋為政(よししげのためまさ)。後に文章博士となって、治安、万寿、長元という元号を考えた。『日本往生極楽記』の慶滋保胤(やすたね)は伯父にあたる。
あれほど可愛がってきた孫が天皇となり、大嘗会で悠紀(ゆき)、主基(すき)に卜定された近江、備中にちなんだ風俗歌舞が奉納された。平和で華やかな儀式の中で道長の気持ちも高揚していたことだろう。だが、まだ早い。彼の絶頂期はこれからやってくるのである。
道長は寛仁二年(1018)に、三女の威子を後一条天皇の中宮に冊立したのである。これにより彰子が太皇太后、妍子が皇太后、威子が中宮と三后すべてを自分の娘とした道長は、あの有名な望月の歌を詠んだ。
「この世をば…」は完全無欠な状況を喜ぶ最高指導者の詠嘆として知られているが、おごり高ぶった姿と批判されたり、後は欠けるだけと満月の儚さが詠まれたと解釈されたりしている。だが、ここは「いいのができたわい。これ上手くね?」と歌を披露し、「なるほど」と同感の参会者が皆で吟詠したという酒席の一場面と単純に理解すればよいのではないか。
こうした絶頂へと向かう上り坂でエールを送ったのが、備中大村山の詠進歌だったのだろう。貴族社会の舞台は京都だが、地方とのつながりにも注目したいものだ。

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