隠岐へと向かう後鳥羽上皇の遷幸ルートはけっこうな謎で、分からないだけに各地に伝説が生まれているが、私が有力視しているのは「嗚呼、承久の乱800年!」で紹介した備前東部北上ルートである。

上皇は播備国境を「才ヶ峠」で越えたという。今は枯葉に埋もれ通る人はいないが、実は岡山県道・兵庫県道385号高田上郡線の未開通区間であり、古くからの要路である。備前側の高田から南に向かえば山陽道に出ることもできる。この要所を押さえた山城を紹介しよう。



備前市吉永町高田に「惣谷山(そうだにやま)城跡」がある。私は才ヶ峠から県境に沿って南に下り、搦手の尾根筋から城跡に向かった。
写真で示したように、最初に出会うのが二重堀切、その次に箱堀のような高低差が大きい曲輪が続き、細長い主郭がある。木々がなければ道行く者の動きを把握できるだろう。いったいどのような勢力がこの城にいたのか。
天保の頃に成立した『東備郡村志』巻之四「和気郡」神根保に次のような記述がある。
【門出村】▲壘址。惣谷山にあり。明石宗連と云人の壘墟也。一書に高取備前が壘址とす。何れか不詳。
また、元文年間に成立した『備陽国誌』「和気郡」古城跡に次のような記述がある。
惣谷山城 門出村。城主明石宗連。
城主伊勢新九郎居城也。剃髪して後、北条早雲と号す。先祖は平相国清盛の末平松里の孫小松内府の三男也。諸国武者修行に出て、応仁の比、備中国に身上あり。文明年中に此城に楯籠ると云ふ。(里民の説に、此所北条田と云ふ所有り。北条の一族ならんか。)
両書に共通しているのが、城主を明石宗連とする点だ。和気郡内の有力国人と言えば、明石掃部を輩出した備前明石氏だから、両書の記述は妥当だろう。
ところが、それぞれ異説も紹介している。まず、高取備前。吉永町神根本の医王山城を居城にしていた。明石氏も高取氏も浦上氏配下の武将だろう。
ところが、北条早雲こと伊勢新九郎が文明年間にこの惣谷山城に立て籠もったのだという。若い頃に備中にいたのは正しいが、備前の城で戦う理由などなかろう。文明年間には駿河に下向して活動していたはずだ。
いずれにせよ、浦上氏が領内の動きを掌握するために築いた城だろう。赤松氏に取って代わった浦上氏だが、下剋上で宇喜多氏の軍門に降ることとなる。城はあっても権力の維持は、なかなかに難しい。

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