ヤマトタケルと早良親王

誰が決めたのか日本三大怨霊とは、菅原道真、平将門、崇徳天皇だという。しかし私は早良親王が入ってよいと思う。桓武天皇は実弟早良親王を廃太子としておきながら、親王が憤死すると「崇道天皇」と尊号を贈り、たびたび霊に謝罪した。

天皇が謝るくらいだから、その怨念は強烈なのだろう。天皇だけではない。全国各地で霊が鎮められているのだ。

井原市西江原町に「崇道神社」が鎮座する。坂道の途中にあって、危うく通り過ぎてしまうところだった。

詳しい説明板があるのがうれしい。読んでみよう。

史蹟 崇道神社
当神社は、景行天皇の皇子小確尊が日向の熊襲討征の途次休息されたという、休森の地(現在の農協西側附近)に崇道天皇を祭神として小祠を建てられていたもので、延暦二十四年(西暦八〇五年)に郷の宮惣■(臺の吉を台に代えた文字)大明神を併祀され、江原郷九ヶ村(東江原、神代、西江原、寺戸、山野上、東青野、西青野、名越、花瀧)の総氏神として崇敬されていたのである。また、嘉祥三年(西暦八五〇年)大和の国から日本武尊を勧請し合祀された。その後、永正十年(西暦一五一三年)松山城主(高梁)上野頼久は、社地を現在地にトし、社をこゝに奉遷し、なお郷社として深く尊敬していた。また永禄三年(西暦一五六〇年)境内に須佐之男命を祭とする荒神社もまつられ、武速神社ともとなえられたこともあるが世もうつりかわり氏子も分離し、信者の数も少なくなったが人みな崇道神社とゝなえてきたと伝えられている。永正年間は松山城主、元禄十年(西暦一、六九七年)より正徳四年(西暦一七一四年)までは森和泉守が毎年所定の玄米を寄進し守護して来ていたのである。申すまでもなく地元小角地区民は昔から地区の氏神様として親しく崇道様とよび信仰厚く守り続けているのである。
昭和六十三年三月建之
崇道神社氏子中 西江原史跡顕彰会

説明文中の「小確尊」は「小碓命(おうすのみこと)」が正しく、日本武尊(ヤマトタケル)を指す。神功皇后の伝説地はこれまでも何度か紹介したが、ヤマトタケルは珍しい。

山陽道が東西に貫く地域だから、九州へと向かうヤマトタケルも当然通っただろう。大遠征だからたまには休まねばなるまい。その休息地を「休森(やすもり)」といい、今の農協西側付近だという。

『西江原村史』には「社跡は東新町西端北側に在り」と記されているが、農協付近と一致するのかよく分からない。国道486号には東新町交差点がある。とにかく山陽道沿いのこの辺りに崇道天皇を祀った社があったのだ。

延暦二十四年(805)に「惣■大明神」を併祀したという。『西江原村史』で確認すると「惣堂大明神」とある。「惣堂」と「崇道」は読みが通じることから、これが早良親王を指すと思われる。延暦四年に憤死した親王の慰霊は、同二十四年当時も続いていた。惣堂大明神が早良親王なら、崇道天皇を祀った社に「併祀」はおかしい。その後、嘉祥三年(850)にヤマトタケルを合祀した。

次に登場するのが松山城主上野頼久。頼久寺にその名を伝える幕府奉公衆である。戦国初期にあっては備中で最有力だった。そして最後は森和泉守。西江原藩主だった森長直である。正徳の頃はすでに赤穂藩主に転じていた。

ヤマトタケルゆかりの地に早良親王が祀られた。英雄を思慕する思いと怨霊を畏怖する心が同居している。英雄も怨霊も志半ばに若くして亡くなっている。手厚く祀られるだけの理由はちゃんとあるのだ。

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