我田引水の歴史的成功

「我田引水」とは自分の都合のよいように物事を進めることで、ほめ言葉ではない。漢籍に由来する故事成語のように思えて、和製熟語らしい。トランプ米大統領の外交ポリシーがまさにこれである。元首殺害を伴うイランへの攻撃は、田んぼに例えるなら、畦を破壊し水路を寸断するようなものだ。田んぼは干上がるだろう。スサノオの悪行どころではない。アマテラスが岩戸隠れしなくともお先真っ暗である。

我田引水のおかげで地域が潤った例がある。平家の武将妹尾兼康の本拠、備中妹尾郷は、海は近いが川がなく、水不足に悩まされていた。さあ、どこから水を引くか。ちょうどいい場所があった。

総社市井尻野に「湛井十二箇郷用水湛井堰築造八百年記念」と刻まれた碑がある。書は岡山県知事長野士郎だ。

築造から800年を記念して建てられたという。いったい、いつから800年前なのか。副碑の説明板を読んでみよう。

この地にある十二箇郷用水取入口は、湛井堰とよばれ、往古はここより約五百メートル下流の六本柳にあったが、高梁川流路の西方移動のため、一一八二年(寿永元年)備中妹尾の豪族、妹尾太郎兼廉がこの湛井の地に井堰を構築したとされている。この用水掛りは十二箇郷六十八ヶ村(現、三市二村)約五千ヘクタールに及び、豊富な水量に恵まれて未だ干ばつを知らず、その恩恵に感謝の意を表し、ここに開堰八百年を記念して碑を建立す。
昭和五十七年(一九八二年)
湛井十二箇郷組合 管理者 総社市長 本行節夫

妹尾兼康については以前の記事「涙にくれて道見えず(妹尾兼康の場合)」で詳しく紹介した。悲運の武将だが、地元妹尾の人々にとっては恩人である。

1182年とは、前年に平清盛が没して、平家政権が大きく傾きつつあった頃である。さらには養和の大飢饉により食糧増産が求められていただろう。兼康には民生安定に向け一大事業を起こす動機があった。

ここ湛井堰が築かれたのは平安末期だが、用水の起源はもっと古い時代までさかのぼるらしい。詳しい歴史を記した説明板があるので勉強することにしよう。

湛井十二ヶ郷用水
県下でも最大の灌漑規模と古い歴史を持つ湛井十二ヶ郷用水(以後、十二ヶ郷用水)の起源は不明ですが、平安時代にまでさかのぼるといわれ、伝承によれば、平安時代末期の武将妹尾太郎兼康(以後、兼康)により改修されたと伝えられています。
兼康は、備中妹尾郷に所領をもち、その所領のに水を引くため、湛井堰の築造と用水路の改修を命じました。兼康は、堰の位置をどこにするか悩んでいましたが、ある日高梁川を眺めていた兼康の目に、白蛇が川を横切り向こう岸に渡るのが見えたため、その場所に堰を造り、湛井堰を完成させたという伝承が残っています。十二ヶ郷用水の主な水路についても、兼康が馬に乗って各地を回り、用水路に適した箇所に目印の竹を立て、水路を掘らせたと伝えられています。平氏方の武将であった兼康は、源義仲との戦いで果敢に戦いましたが敗れ、勇ましく戦死しました。
湛井堰を見下ろす権現山の山腹には、湛井堰と用水の守護神である井神社と兼康を祭った兼康神社があります。十二箇郷の人々は、用水の恩人として兼康を祭り、また、毎年井神社では、初堰祭として用水への豊富な通水と豊作を祈願する祭祀がとりおこなわれています。
そもそも、湛井堰のできる前には、湛井より少し高梁川を下った(約六百メートル下流)、字六本柳というところに取水の堰があったといわれています。十二ヶ郷用水はいつごろ造られたかはわかりませんが、おそらく字六本柳の堰があったところは、古代の高梁川が東へ分流する分岐点であったと考えられ、その古代の川筋を利用して用水路が造られたと考えられます。平安時代の初めに、堰を修理する費用を国が出したという記録が残っていることと、服部郷図という古代の服部地区を描いた絵図には用水路が描かれていることから、おそらく平安時代には十二ヶ郷用水の原型となるものがあったと考えられます。
十二ヶ郷用水の配水地域は、上流から刑部郷・真壁郷・八田部郷・三輪郷・三須郷・服部郷・庄内郷・加茂郷・庭瀬郷・撫川郷・庄郷・妹尾郷(現在の総社市南東部、岡山市西部、倉敷市北東部、岡山市南西部)の十二箇郷であり、ここから十二ヶ郷用水の名前がつきました。ちなみに服部郷までの六郷を上郷といい、庄内郷以下の六郷を下郷と呼んでいます。この用水を利用して稲作をしている水田の面積(灌漑面積)は、約四千六百ヘクタールにおよんでいます。
昭和四十年(一九六五)に現在の合同堰(湛井堰下流約二キロメートルに造られていた上原井領堰との合同堰)が完成するまでは、湛井堰では毎年高梁川を堰き止める、堰づくりがおこなわれてきました。田植え前の五月下旬ごろから湛井堰の取水口にたまった土砂を取り除く「せぼり」という作業を行い、そして、十二箇郷の人々で分担して堰場に木枠や石を運び堰を築きました。こうして、田に水を引き稲を育てました。その後は、秋の彼岸過ぎには用水の水はいらなくなり、船の通行や砂を通すため、堰をとりはらいました。十二箇郷の人々は、長い間、人力でこうした作業を毎年続けてきたのです。このように古い歴史と有数の灌漑規模をもつ十二ヶ郷用水は、強い水利権をもつとともに古くから自治的な管理運営をおこなってきました。旱ばつの年には、湛井堰より下流へ水を流さない権利を持っていたため、堰より川下の村々では水不足に悩まされていました。そして、高梁川を行き来する高瀬舟などの船は、堰が設けられる間は堰の通行を禁止されていました。江戸時代、諸国を巡っていた遊行上人という高僧が舟で高梁川を下る際にも、湛井堰の通船を止め、さらに、幕府御用銅の輸送についても、堰の通船は認めませんでした。また、堰や用水の管理については、室町時代末期から、十二箇郷村々から代表である惣代出役を選出し、合議を行い、自治的に費用や人夫を出す事等を取り決めていました。その後明治時代以降、こうした管理運営は、湛井十二箇郷組合が結成されておこなわれ、現在に至っています。
現在の十二ヶ郷用水は昭和三十年に農業用水の貯水を目的に完成した小阪部川ダム(新見市)からの放流と水路改修により安定した通水が行われています。そして農業用水としてだけではなく、生き物の生息の場、雨水や生活排水、防火用水などの多面的な機能も果たしながら、長い歴史と共に地域の財産として受け継がれています。 
設置者 総社市・高梁川用水土地改良区

長い説明文のポイントは3つある。1つ目は妹尾兼康が自分の所領に水を引くため用水を改修したこと。まさに「我田引水」である。これが悪く言われないのは、用水の受益者が十二箇郷という広範囲にわたっているからだ。

その十二箇郷とはどこか。青字で示した広大な地域だ。これが2つ目である。灌漑面積は約4,600haに及ぶという。そして3つ目は、長い歴史と影響力の大きさから、高梁川を往来する高瀬舟の通行を制限できるほどの強い水利権を有していたことだ。

湛井堰から始まる十二箇郷用水は、JR吉備線と同じルートで東へ向かい、足守川を下って興除の干拓地へと続く。その昔、高梁川には、総社平野を東流し足守川に達する支川があったらしい。それを改修したのが妹尾兼康だった。

十二箇郷用水の支流「妹尾郷用水」である。起点は妹尾崎、その水は地図によれば「高梁川水系湛井堰より」来ているという。

写真は終点手前にある樋門であり、終点からは東へ向かって笹ケ瀬川へと排水している。ここは湛井十二箇郷用水の末端であり東端なのだ。

我田引水のおかげで、広大な地域が潤った。自己都合であっても社会貢献はできるのだ。ところがどうだ、自己都合ファーストのトランプ米大統領のせいで、原油価格が爆上がりし、ガソリンはℓ200円目前だ。全米のガソリン価格も急騰とか。ナフサもLNGも世界中で調達難が懸念されている。トランプリスクこそ目下最大の危機なのだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました