加古のうまやの跡遠き ゆかりの里の若草よ♪と歌うのは、加古川市立野口小学校の校歌である。創立150年を超える伝統校は、自らの誇りを古代山陽道の駅家から説き起こす。
古代官道のルートや駅家については不明な点が多々あるが、ここ播磨では先進的に調査・研究が行われ、駅家の位置がかなり明らかになっている。本ブログでも「邑美(おうみ)駅家」「邑智(おおち)駅家(大市駅家)」「高田駅家」「野磨(やま)駅家」を紹介した。
令和5年に兵庫県立考古博物館で「駅家発掘!-播磨から見えた古代日本の交通史-」という秀逸な展覧会が開かれた。発掘調査の成果をもとに、『日本後紀』大同元年五月十四日条に示されている駅家設置基準との関係を分かりやすく整理した。
本日は邑美駅家の西に位置する賀古(かこ)駅家を紹介しよう。なんと我が国最大の駅家だという。


加古川市野口町古大内(ふるおうち)に「賀古駅家跡」がある。約80m四方の広さがあり、上の写真で立木のあたりが北辺となる。
下の写真は駅家の北を通過する古代山陽道。道に沿って溜池、駅ヶ池(うまやがいけ)が掘られたようだ。立木近くに説明板が二つあるので、読んでみよう。
古代の物流施設 賀古駅家跡
ここ加古川市野口町には賀古駅家(かこのうまや)跡があり、古くから交通の要衝として栄えてきました。7世紀後半から8世紀初めにかけて律令国家の確立期に整備された古代山陽道は、畿内の都と九州の太宰府を結ぶ幹線道路として機能していました。駅家とは、そうした道を利用する役人や外国からの使節が馬を乗り継いだり、宿泊したりするための施設で、賀古駅家跡周辺は古大内(ふるおうち)遺跡と呼ばれています。
近年行われた古大内遺跡の発掘では、当時の瓦が出土しています。賀古駅家は当時、約80m四方の瓦葺きの築地塀(ついじべい)で囲まれていて、人を運ぶための馬が多いときには40頭も管理されており、かなり立派な施設だったようです。一般的に駅家は約16kmごとに設けられていましたが、播磨地域ではより短い間隔で駅家があったといわれています。
山陽道の駅家は11世紀の初めくらいまで使われていたと推定されますが、国家権力が衰退し海路の利用が増えていたことなどがあって、次第に廃止されたといわれています。
加古川観光協会
No.65
わがまち加古川70選
駅ヶ池(うまやがいけ)・賀古駅家跡
賀古駅家跡(古大内遺跡)は、古代律令国家の下、西国街道に設けられた国内最大の駅家と呼ばれる拠点の跡です。付近には、念仏信仰の祖として崇敬を集めた沙弥教信(しゃみきょうしん)が村人たちと掘った駅ヶ池があります。教信上人が食べた魚をこの池に吐き出すと魚肉が元の魚に戻ったという言い伝えが残ります。
加古川市
説明板の表題「古代の物流施設」というのは、少々正確さを欠いているが、本文の説明は的確である。物を運ぶのではなく人が移動するための施設だったのだ。トラックターミナルではなく、道の駅にホテルとガソリンスタンドが併設されているようなものだろう。駅ヶ池(うまやがいけ)については、別途取り扱うこととしたい。
遺跡としては地名から「古大内遺跡」と呼ばれるが、説明板は別の場所にある。

立木の場所から道を挟んで南側に「大歳神社」が鎮座する。大歳神はこの辺りではよく祀られているが、当社は具平(ともひら)親王も祀られている。
具平親王は村上天皇の皇子で、文化人として知られた方だ。親王の子の源師房(もろふさ)は村上源氏の祖となった。播磨で威を張った守護大名、赤松氏は村上源氏を称したので、この神社にご先祖様を祀ったということなのだろう。
境内に「古大内城阯」と刻まれた石碑が建つ。いったい誰の?と気になるのを解決してくれるのが『赤松旧記』「赤松家由緒之事」である。『有馬郡誌』上第九編「有馬郡と赤松氏範との関係」に掲載されているので、関係部分を抜粋しよう。具平親王-源師房-雅実-雅定-定房という流れを記した後、次のように説いている。
其次は従三位宰相季房卿、詩歌弓馬の達人、後白川の法皇、征西将軍の詔により高倉院嘉応元年己丑、播磨の国司に成り、加古郡古大内に下向し給ふ、其頃同国赤穂郡赤松の庄の高山に雲気立て白旗の如く、季房卿同じく白旗の霊夢を見給ふ。是に依りて彼の山に城を築き、白幡の城と号し移住し給ふ、
古大内城は、赤松氏の祖となる源季房が播州加古郡に下向して築いた城であった。季房はその後赤穂郡に移り、白旗城を築いたという。ただ、このことは伝説の域を出ず、確かなのは説明板に記されている内容だ。
古大内(ふるおうち)遺跡(賀古駅家跡)
この遺跡は、出土する古瓦から、奈良時代後期(約1300年前)から平安時代中期(約1000年前)までの遺跡と考えられています。
地元に壇の森と呼ばれている松林があり、大きな礎石が散在していることなどから寺院跡と考えられていたこともありましたが、教信上人が賀古駅家の北に庵を結んだという伝承や、ここから出土する古瓦が、播磨国司の統制下におかれた施設に用いられたいわゆる播磨国分寺系の瓦であることから、現在では、古代山陽道に設置された賀古駅家の跡と考えられています。
賀古駅家は、駅馬(えきば)40疋を置いたわが国最大の駅家でした。
平成20年3月 加古川市教育委員会
賀古駅家の敷地内において、社地は南西隅に位置する。気になるのは「わが国最大」だ。なぜ、そう言えるのか。根拠を調べてみよう。『延喜式』巻第二十八「兵部式」諸国駅伝馬条には、次のように記されている。
播磨国駅馬
明石三十疋。賀古四十疋。草上三十疋。大市、布勢、高田、野磨各二十疋。越部、中川各五疋。
山陽道のような大路における標準の駅馬は二十疋だから、明石、賀古、草上の各駅家は特別で、特に賀古駅家の四十疋は破格の配備である。
山陽道の駅家は東から明石-邑美(おうみ)-賀古-佐突(さつち)-草上なのに、『延喜式』の記載をよく見ると邑美と佐突がない。どうやら邑美と佐突の駅家は管理の都合からか、賀古駅家に統合されたらしい。
こうして賀古駅家は「わが国最大」となった。それだけの物理的収容力と心のキャパシティがあったということだろう。小学生が地域の誇りとして歌うだけの価値がある。律令国家の拠点ターミナルだったのだから。

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