JR竜野駅は今でこそ「たつの市」に位置するが、平成の大合併前は揖保川町という別の自治体にあった。市の中心部にあるのは本当の竜野駅、本竜野駅である。JR東岡山駅はかつて西大寺駅という名称だったが、会陽で有名な西大寺地区からはずいぶん離れていた。会陽見物に行く人は、ここから西大寺鉄道に乗り換え西大寺市駅で降りていた。
この西大寺鉄道に「大師駅」があった。名前の似ている川崎大師駅は、川崎大師まで距離にして350mほどの最寄り駅である。では西大寺鉄道「大師駅」で降りた人々は、何というお大師さまにお詣りしたのだろうか。

岡山市中区関に「大師駅跡」がある。
前の道路は、昭和37年に廃止された西大寺鉄道の跡地である。廃止理由は国鉄赤穂線と競合するためであり、西大寺駅の名称は西大寺地区に位置する駅が引き継いだ。
この大師駅から東へ向かうと東岡山駅(旧西大寺駅)に隣接していた財田駅、さらに進むと西大寺市駅に至る。西へ向かうと岡山駅ならいいが、後楽園駅が終点だった。説明板を読んでみよう。
西大寺鐵道(鉄道)は、西大寺~岡山後楽園間を走った3フィートゲージ(914mm軌間)の鉄道です。明治44年(1911)12月29日、西大寺~長岡(旧財田駅・現東岡山駅)間に開業し、大正4年(1915)11月4日には長岡~岡山後楽園間の全線が開通しました。以降、昭和37年(1962)9月6日に廃止されるまで、市民からは「けえべん(軽便鉄道)」の名で親しまれました。
この「けえべん」は、11.4kmを約40分かけて、ガタゴトと田畑のなかをのどかに往復していました。自転車を積み込める架台が付いた車両もあり、西大寺会陽(はだか祭り)の際には車両の屋根の上まで乗客が溢れていました。軌道が廃止された今も地域の人々に愛着を持って語られています。
この辺りが大師駅跡です。 開設当時は「関駅」、その後「幡多駅」と呼ばれていました。大正5年(1916)10月7日、鳥坂山(とっさかやま)の虚空蔵大師(ゴロゴロ大師)へ参拝客が激増したため、「大師駅」と改称されました。
(資料提供:両備ホールディングス株式会社)
(看板提案:岡山市立東公民館あかれんがクラブ)
岡山市
明治45年の開設当初は「関駅」であった。関という地名だから当然だろう。しかし、関西本線に関駅があることから紛らわしいと、大正3年に「幡多駅」と改称された。関は幡多村に属していたからこれもいいだろう。
ところが大正5年に、ゴロゴロ大師への参拝客急増により「大師駅」と改称された。お大師さまに御参詣の皆様は、西大寺鉄道をご利用になって大師駅でお降りください。そうPRしたかったのだろう。
西亀正夫という地理学の教育者がいる。広島県出身で独学により文検という文部省教員検定試験の地理科に合格したという努力家である。昭和5年には地理学に強い老舗古今書院から『人文地理学講義』という解説書を出している。その下巻第六篇「聚落地理学」第六章「聚落の生態」には、次のような記述がある。
甞て岡山市の東方一里許の笠井山の北麓にゴロ/\石と称する巨岩があった。それを或石工が破碎したら祟りがあつたとか云ふので、急に種々の噂を生じてゴロゴロ大師と称する小祠が出来、遠近よりの参詣者昼夜引きも切らぬといふ様になって、元来一戸の家もなかつた処に急に一大聚落が発生した。無論急造のバラックばかりで土産物の販売と飲食店とを主としたものであつたが、一時はその戸数百八十余戸に達し、付近の軌道は特別に大師駅といふ駅を設け臨時列車を出すといふ風で、一日の参詣者数万、一戸の売上高数百千円といふ盛況を呈した。併し一時の流行は永く続く筈がなく、僅か半年たらずで全く没落し、一二戸の商家を残すのみとなつて居たが後にはそれさへも無くなり、たゞ祠のみが依然として林間に聳えて居るばかりで、住み捨てたバラックは取り片付ける人もなく雨に曝されるに至った。
集落の発生、成長、衰退などを解説する中で、一時的な集落の例として紹介したものである。西亀先生は岡山県西大寺町立高等女学校にもお勤めになったことがあるようだから、この辺りの事情にも通じておられたのだろう。その後、広島で長く活躍されたが、原爆により亡くなったそうだ。
ゴロゴロ大師のブームは半年足らずだったようだが、大師駅の名は廃線となるまで使われた。門前市をなしたお大師さまは、いったいどこにあるのだろうか。しばらく探してやっと見つかった。

岡山市北区兼基に「修験道祈願所 鳥坂山ゴロゴロ大師」がある。
とてもきれいに整備されて気持ちよくお詣りができる。しかし、ここは大師駅からずいぶん遠い。Googleマップによれば2.4kmある。歩けない距離ではないが、現代人の感覚では近いとは言えない。もっとも伊豆の修善寺駅は修善寺まで2.5km離れているようだから、とやかく言う話ではなかろう。
西亀先生は旧西大寺駅が西大寺地区と離れていたことについて、前掲書にて次のように指摘している。
岡山市の東方に山陽線西大寺駅があるが、あれは西大寺町とは二里も離れた財田村字長岡にあつて、元は長岡駅と称していた。それを西大寺駅と改称するに至つたのは、鉄道沿線から離れたために著しく衰頽に赴いた西大寺町の人々が、駅名の獲得によつて少しでも回春の機会を捉へようとの努力の結果に外ならぬのである。
駅名の改称は衰退する集落の再生策であったと集落地理学の観点から分析している。実態があるからその名称にしたのか、その名称にすることで実態を生み出そうとしているのか。名称と人の動向との関連は、近年人気の観光地理学においても重要なテーマである。


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