皇位継承が益々危うくなっている。その地位は国民の総意に基づくと言いながら、議論は分断の方向に進んでいるような気がしてならない。対立軸を単純化するなら「形式か実質か」ということになろう。
天皇という地位や皇統という血統は形式的要件であり、不可欠で絶対的でありながら、権威の源泉として居るだけでよいと見られることがある。いっぽうで君主には人徳が不可欠という実質的要件を重視する考えもある。それは幼少期からの帝王教育によって培われるものだろう。
血筋があれば誰でもいいのでもなく、人間性が好ければ誰でもいいわけでもない。形式と実質を兼ね備えた方を君主として戴くのが君主国の理想だ。
男系男子がという形式を守ろうとするなら、旧宮家にお願いして将来の皇位継承者を出していただき、少しでも早く帝王教育を施すほかなかろう。でないと、悠仁さまとお相手に男子誕生のプレッシャーをかけ続けることとなる。それ以前に皇室に入ろうという女性が現れない恐れがある。
男系男子による皇位継承者リストができないなら、女性皇族と皇族身分の夫と子による宮家を創設し、女系も含めた皇位継承者リストを作成すべきだ。旧宮家に頼るより、よほどこちらの方が現実的だ。だいたい子どもができるかどうかさえプレッシャーなのに、男子というハードルを設けることは人間の生き方に反することだろう。
とにかく皇位継承者はいるのですから、安心して結婚してください。そう言える環境をつくることが急務なのである。
継嗣不在で改易となった大名は江戸時代にいくらでもいる。私たちは過去に学ばねばならない。本日は掛川藩主北条家にまつわる話をしよう。

掛川市掛川に「龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)附春日厨子」があり、県の有形文化財(建造物)に指定されている。
大猷院とは三代将軍家光のことで、附指定の春日厨子の中には大猷院の霊牌が納められている。日光の輪王寺大猷院は重厚で荘厳な雰囲気で知られている。掛川の霊屋はこじんまりとしているものの、上品な煌びやかさが特別感を醸し出している。説明板を読んでみよう。
龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)
宝形造(ほうぎょうづくり) 桁行三間(五.五m)梁間三間(五.五m)
この霊屋は、明暦二年(一六五六)掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光(諡号大猷院)の霊牌を祀るために建てたものである。
当時の建物は、文化十五年(一八一八)三月火災により失われ、文政五年(一八二二)当時の藩主太田資始(すけもと)により再建された。現在屋根は瓦葺であるが、再建時は柿葺(こけらぶき)であった。内部には春日厨子があり、霊牌を祀る。昭和二十九年(一九五四)一月三十日、春日厨子を含め、静岡県文化財に指定された。
霊屋は嗣子のない氏重が断絶の打開策として建立したといわれるが、万治元年(一六五八)十月氏重の死去に伴い、家は断絶、領地は没収となった。
霊屋が建つ地には、戦国時代の明応六年(一四九七)から文亀元年(一五〇一)ごろ駿河の守護大名今川氏親が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰凞(やすひろ)に命じて築かせた掛川古城の本曲輪があった。
掛川市
創建時の建物は江戸後期に焼失したが、春日厨子と霊牌は奇跡的に残ったという。霊屋を再建した藩主太田資始は、老中を三度務めた大物である。霊屋再建は幕府へのやってる感アピールになったことだろう。
創建した藩主は北条氏重。後北条氏一門で玉縄北条氏の流れを汲む大名である。小田原合戦当時の当主氏勝は、一門とともに秀吉勢と戦ったが降伏。その後は家康に臣従し下総岩富で藩主となった。その跡を継いだのが、保科氏出身で家康と母を同じくする妹を母とする氏重であった。
慶安元年(1648)からは掛川藩主となった。氏重に子どもはいたが、女子ばかり5人であったため御家断絶の危機が迫っていた。その打開策として建立したのが、将軍家光の冥福を祈る霊屋であった。そんな得点稼ぎもむなしく、氏重の死去に伴い無嗣改易となってしまった。
本邦もこの少子化の時代、男系男子にこだわっていれば、皇室は途絶えるだろう。私たち勤皇を旨として生きる者は、敬慕できる君主を戴きたいのであって、神武天皇のY染色体という得体が知れぬものを信じるつもりはない。

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