戦いに敗れた中世山城の城主が生きる道は幾つかある。味方の陣営に退くか、敵方に帰順するか。それとも、出奔して落武者になるか。出家あるいは帰農して敵意を示さない方法もある。
おそらく帰農したのであろう、城主の子孫が今も城の周辺に暮らしているケースは多い。このブログでも「ここでも毛利と宇喜多の戦いが」で、田邊氏の山城を紹介したことがある。本日は、須々木氏の山城を紹介しよう。


岡山市北区原に「船山城跡」がある。写真上は主郭で、左側に城主の墓、右側に顕彰碑がある。それぞれの後ろには、土塁が見える。右側(北側)の土塁の向こうに、尾根を断ち切る堀切がある。これが下の写真だ。
単純な構造ながら、岡山市街地方面の眺望に優れている。もっとも当時の岡山は城下町さえ出来ていなかった。それよりも、中世山陽道が旭川を渡河する地点、「鑵子の釣の渡(かんすのつるのわたし)」を監視できることが重要だ。
渡し場は今の三野公園のあたりで、三野公園には妙見山城があり、船山城主須々木豊前の子、四郎兵衛が居城していた。さすが須々木一族、押さえるべきところをきちんと掌握している。

この古い墓標には「須々木豊前守之墓」と刻まれていたと、旧版『岡山市史』第七十章「戦国時代の城砦」は推測している。隣にある新しい墓標には「船山城城主須々木豊前守の墓」と刻まれている。
ただし、古い墓標はもとからここにあったのではない。旧版『岡山市史』は「本丸北方馬場ノ東部二須々木豊前守之墓アリ」とある。

墓の後ろにある土塁の向こうに帯曲輪があり、そこに「船山城城主須々木豊前守の墓跡」と刻まれた碑がある。この城にどのような歴史があるのか、説明板を読んでみよう。
備前国 船山城跡
この山錐子絃山(きりこげんざん、錐子山)は古墳であり、室町時代から戦国時代にかけ備前国の武将須々木豊前守の居城、船山城があった。そして御津金川城主松田氏の勢力下にあった。その後、備中松山城主・三村元親の勢力下になった。
一五六七年(永禄十年)明禅寺合戦、備前の宇喜多直家×備中の三村元親の戦いは、宇喜多直家が大勝利。宇喜多直家の家臣戸川秀安により一五六八年船山城は破却。出城であった須々木豊前守の嫡子須々木四郎兵衛の居城明見山城(現三野公園)も破却。船山城主須々木豊前守は隠居して、行蓮と号した。
須々木四郎兵衛は、宇喜多直家・秀家に仕え関ヶ原の役後、御野郡原村(現岡山市北区原)に帰住。
尚 須々木氏について=薄(すすき)氏
平安・鎌倉時代(現埼玉県小鹿野市両神薄)、秩父地方で栄えた豪族薄氏一族は、源平合戦で源氏勝利に貢献、恩賞として鎌倉幕府より岡山備前国、原の地一帯を与えられ移って来ました。
薄氏は、船山城主、本姓を丹治とする須々木豊前守の先祖です。又、江戸時代、酒折宮(現 岡山神社)の門脇にあった平福院の関係者であった、僧侶薄氏の墓石が船山城跡、頂上下段須々木一族の墓地内に鎮座しています。
二〇一八年は船山城落城から四五〇年の遠忌の年でした。
令和二年(二〇二〇年)十一月吉日
船山城跡保存会 舟山町内会
宇喜多直家が寡兵で大軍を破った明禅寺合戦により、船山城は破却された。豊前守が三村元親に味方していたことが仇になったわけだが、当時としては常識的な判断と言えよう。
子の四郎兵衛が守った明見山(妙見山)城も破却されたが、宇喜多氏に仕えたようだ。しかし、関ヶ原敗戦により帰農することとなった。

古い顕彰碑には、次のように刻まれている。
追遠碑
岡山之北一里有古城址曰船山山下屋宇錯落田圃縦横児女雞犬群相嬉遊恍
如入仙境居民率以須々木為氏云須々木氏之先無譜牒之可徵然金山観音寺
所蔵正和二年文書已有署須々木某名者則其為備之名族久矣足利氏之季有
豊前者居船山城其子四郎兵衛居明見山城属金川城主松田某永禄七年成羽
城主三村家親来攻父子出降十年家親子元親命豊前備松田氏自攻沼城主宇
喜多直家反為其所破先是豊前陰納欵於直家至此遣四郎兵衛賀捷直家責其
持両端收邑毀城新拾禄百四十石於四郎兵衛以存其祀別給三十石充豊前養
老資及宇喜多氏亡四郎兵衛闢田躬耕不復出仕子孫蕃衍儼存者凡八十家散
居備之各地今住船山之下者亦其一也船山有廟曰須須木宮為祭須須木氏祖
先之処一族崇敬歳時修祀不怠属者相謀欲樹石其側以伝来者介塚本吉彦翁
請文於余余喜名族之有後也乃不敢辞記其梗概繋之以銘銘曰奈加奈加二与
乎波那礼之也巴南須須幾寸恵比良久倍貴毛登位男利計武
明治三十五年二月
岡山県知事正五位勲四等吉原三郎篆額
岡山医学專門学校教授正六位井上通泰撰文
播磨藤本節二謹書
岡山の北一里ほどのところに古城の跡があり、船山城という。ふもとには民家や田んぼが入り交じり、子どもたちやニワトリ、犬が、群れてうれしげに遊んでいる。ああ、別世界に入ったかのようだ。そこに住む者はおおむね須々木を氏としているという。須々木氏の先祖については、系譜がなく明記することができない。しかし、金山寺が所蔵する正和二年(1313)文書には、すでに須々木某(須々木惣領殿)の名を見ることができる。すなわち備前の名族として古い歴史を誇っている。足利時代の終わりごろ、豊前という者が船山城に、その子の四郎兵衛が明見山城にいて、金川城主松田氏に属していた。永禄七年(1564)に成羽城主三村家親が攻めてきたため降伏した。同十年(1567)、家親の子元親は豊前に命じて松田氏を牽制し、自ら沼城主宇喜多直家を攻めたが、返り討ちにあってしまった。これより先、豊前は陰で直家とよしみを結び、戦い後に四郎兵衛を遣わして勝利を祝った。直家はその日和見的な態度を責め、領地を没収して城を破却した。四郎兵衛には新たに禄として140石を給し、家名を存続させた。それとは別に、豊前の養老費として30石を給した。その後、宇喜多氏が滅亡してからは帰農して、再び出仕することはなかった。子孫は繁栄し、およそ80家は確かにある。備前各地に住んで、現在船山のふもとに住む一族もその一つである。船山に霊廟があり、須々木宮(神社)という。須々木氏の祖先を祀るところである。須々木一族により崇敬され、折々の祭祀が欠けることはない。このたび関係者が相談して、神社のそばに石碑を建て、来訪者に来歴を伝えることとした。塚本吉彦翁から私に撰文の依頼があった。私は名族の存続を喜ぶものである。よって依頼を進んで引き受け、その大要を記し、銘を添えて締めくくる。銘して曰く。
なかなかに世をはなれしや花すすき末開くべきもとゐなりけむ
明治35年2月
篆書で題字を書いたのは、第4代岡山県知事吉原三郎(その後内務次官を務めた官僚)
文章を作成したのは、岡山医学專門学校(現岡山大学医学部)教授井上通泰(柳田國男の兄、眼科医、貴族院議員)
その文章を書いたのは、播磨の藤本煙津(えんしん、本名は節二)(柳田國男の父松岡操と交流があった。)
古い石碑で関心を示す人は少ないが、錚々たる人物が関わっている。山城の良好な遺構、須々木一族の長い歴史、それを伝える格調高い顕彰碑。これほどの史跡には、めったにお目にかかれない。

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