尼子氏を遠く播磨で偲ぶ

尼子氏は16世紀半ば、晴久の代に最大版図を誇った。出雲を本拠地としながら、遠く播磨へと進出していたのだ。そこまで大きくなっても生き残れないのが戦国の現実。消え失せた戦国大名、尼子氏を偲んで播磨南部の山城を訪ねた。

赤穂市高野(こうの)に「尼子山城跡」があり、写真は上から遠景、尼子の大岩、山頂の主郭である。

登山道は整備されているが、上に行くにつれて急勾配になる。八合目付近に「尼子の大岩」があり、山頂には尼子神社が鎮座する。その近くにある標柱には、次のように記されている。

標高二五九mの尼子山にある。城主は尼子詮久(後の晴久)の長子、尼子義久といわれている。一五六三年に落城したとされる。

1563年は永禄六年である。この頃は毛利氏が出雲に攻め込み、義久は播磨にいるどころではなかっただろう。落城したというが…上高野から見上げると…

この急勾配の岩山を、どのように攻めたというのか。

下高野にある登山口を少し進むと「尼子将監墓」と刻まれた古い墓石がある。古いといっても形状は近世半ば以降に見える。尼子将監は義久のこととされる。ただし、義久の実際の官位は右衛門督である。

さらに言えば、義久はここで没したのではない。毛利氏の軍門に下ったものの、厳しい戦国の世を生き延び、慶長十五年(1610)に長州で亡くなった。墓は山口県阿武町奈古の大覚寺にある。

尼子義久ゆかりと伝えられる塚が千種川の向こうにある。赤穂市浜市に「尼子塚」がある。

電柱に隠れて見つけにくいが、少々変わった形の五輪塔がある。もとは3基あったという。標柱の説明文を読んでみよう。

別名「首塚」・「采女塚」。尼子義久とも赤松一族の富田采女の塚とも伝えられている。五輪塔の火輪・水輪・地輪を積み上げたもので、元は数基の五輪塔があったと考えられる。

尼子塚の北側に真言宗古義派の「西山(さいさん)寺」があり、尼子氏の祈願寺となっていたという。山号は宝寿山、尼子山、天戸(てんと)山の3説がある。

尼子山城、尼子神社、尼子将監墓、そして尼子塚。史実はよく分からないが、尼子氏とのゆかりが大切に語り伝えられてきたことは確かだ。どうやら伝説の出典は、近世播磨の代表的地誌『播磨鑑』のようだ。読んでみよう。

【尼子山城】矢野庄 在高野村
城主ハ尼子将監義久。永禄六年毛利氏元就ノ為ニ亡サル。其後赤松ノ族富田采女居住ス。或説云、是尼子塚而采女塚ハ周世庄雨内越麓ニ有、然此雨内塚不詳。案スルニ西山寺ノ山号ヲ尼子山ト云。然ハ此尼子ニ而西山寺ハ塚守護カ。采女塚ヨリ少シ西道ノ田ノ端、西山寺ノ前尼子将監ノ塚アリ。土人説ニ富田塚ト云。山ノ八分計リニ古井二ツ有。山上ニハ祇園ノ社有リ。郷民雨ヲ祈ル。

永禄六年(1563)に尼子義久は毛利元就に滅ぼされたという。義久の本当の居城、月山富田城が落城したのは永禄九年(1566)である。その後、尼子山城主となったのは富田采女というが、この人物についてもよく分からない。

西山寺近くの塚は、尼子塚、采女塚、富田塚と様々に呼ばれている。塚の場所には異説があり、「周世庄雨内越麓ニ有」とのことだ。周世(すせ)は赤穂市周世、雨内は相生市若狭野町雨内(あまうち)であり、両所を結ぶ道が地理院地図に記載されている。

「雨内塚不詳」とあるが、確かによく分からない。浜市の尼子塚からも随分離れている。しかし、実際に周世を訪れて気付いたことがある。当地の八幡神社にお参りしての帰り道。正面に見えるのが尼子山であった。何らかの関係があるのかもしれない。

周世は古墳時代後期の群集墳が有名だ。いずれこのブログで紹介するだろう。古墳は本物の塚だが、これを尼子塚、采女塚とは呼ばないだろう。

史実とは異なる伝説に彩られた尼子山城に尼子塚。尼子晴久の代に義久が派遣されていたのかもしれない。義久を追慕する近世の民衆がいたから伝説が生まれたのだろう。義久はやはりいい人だったに違いない。

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