岡山が教育県と呼ばれるのは、史上名高い閑谷学校があるからだとも、寺子屋や私塾が多かったからだとも言われる。江戸時代の全国私塾数1505のうち岡山県は144あり、全国一の割合を占めている(『岡山県教育史上巻』)とのことで、教育熱心なのは間違いないようだ。

浅口市鴨方町鴨方に「西山拙斎先生居宅至楽居私塾欽塾跡」と刻まれた石碑がある。
西山拙斎先生については以前の記事「過ぎたるものが三つあり」で紹介した。あの有名な寛政異学の禁を建言した儒者である。そう書くと思想弾圧に加担したかのように思えるが、先生はそんなお方ではない。
拙斎先生は、荻生徂徠の古文辞学派が道徳よりも実利を優先する態度を批判し、宋学以来の知の蓄積に学び、個人の内面、理性を重視すべきと考えたのである。確かに一理ある主張だ。上っ面ばかり取り繕っても経世済民はできない。高い道徳性を養うことで良い政治ができるのである。これを正学と言わずして何と言おう。
そんな先生のお宅と塾がここにあった。説明板を読んでみよう。
西山拙斎(せっさい)の居宅至楽居(しらっきょ)・私塾欽塾(きんじゅく)跡
江戸時代後期の儒者である西山拙斎は寛保二十年(一七三五)鴨方村のこの地で医者恕玄(じょげん)の子として生まれた。当時の居宅を至楽居という。
京都での遊学を終えて鴨方に帰った拙斎が三十九歳(一七七三年)の時、ここに開塾した私塾が欽塾で子弟の教育に専念した。拙斎の徳を慕って遠近より入門する弟子が多く、塾は入りきれないほど盛況で、塾生は百三十人ほどであったという。
朱子学を正学とする学制の統一を説き、松平定信の「寛政異学の禁」に大きな影響を与えた。拙斎は、六十四歳(一七九八年)でこの至楽居に没するまで教育に携わった。
田中索我筆の「華月橋上(かげつきょうじょう)の拙斎」[市指定文化財]には、至楽居の庭園の蓮池に橋が架かる情景が描かれている。
浅口市教育委員会
この欽塾は拙斎の死後、次子復軒、芥舟、菽翁と継承され、1886(明治19)年の学校令公布頃まで続いたという。欽塾の学統を今に継承するのが県立鴨方高等学校だ。
校長先生はホームページのご挨拶で、学校の前身が明治41年に創立された村立「観生女学校」であり、さらにさかのぼると安永二年(1773)に開かれた「欽塾」にたどり着く、と紹介している。県立和気閑谷高等学校もその淵源を寛文十年(1670)設立の閑谷学校に求めている。
拙斎先生は塾生のために「欽塾塾生肄業程課(きんじゅくじゅくせいいぎょうていか)」という勉強心得を示した。これは「渋沢栄一ゆかりの備中興譲館」や「名利を求めなかった地方政治家」で紹介したように、阪谷朗廬先生の興譲館、仁木永祐先生の籾山黌で唱えられていたのと同じ「白鹿洞書院掲示」をさらに分かりやすく示したものだという。最初の一行だけを紹介しよう。
早晨至飯後読生書(先読経伝次及子史不貪多読須要精熟)
早朝から朝食後の時間で、未読の書物に向き合いなさい。(まず四書五経とその注釈書、次に諸子百家の思想書と歴史書がよいでしょう。たくさん読めばいいってもんじゃありません。正しく理解し自分のものにしなくてはなりません。)
先生のおっしゃる通りだ。250年以上もの昔にすでに朝読書を勧めていらっしゃる。このブログにおいても、晩に悶々として表現できなくとも、翌朝には軽快に書けることがある。朝活の先駆者の教えをしっかり受け継ぎ、一日を充実させたいものである。

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