傘を刀に見立てて斬り合うように踊る「大島の傘踊り」という盆踊りがある。笠岡市大島地区に伝わり、岡山県から重要無形民俗文化財に指定されている。戦国領主であった細川通董(みちただ)公の百年忌墓前祭に、大島村から参列した遺臣らが踊りを奉納していたところ、雨が降り出したので刀の代わりに傘で踊ったのが起源だという。細川通董とは、どのような武将なのだろうか。

浅口市鴨方町鴨方に「細川通董(みちただ)墓所」がある。浅口市の史跡に指定されている。
正面には「長川寺殿前野州太守峯山浄高大居士」と刻まれている。長川寺(ちょうせんじ)は菩提寺で、今も墓域を守るとともに通董の画像を伝えている。説明板を読んでみよう。
浅口市史跡 細川通董墓所
この墓の主である細川通董は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、備中国浅口郡(東は倉敷市西阿知、西は笠岡市西大島の範囲)を統治した武将である。細川通董は天正十五年(一五八七)に豊臣秀吉の九州平定に毛利氏の旗下として従軍の際に、長門国赤間関(現下関市)の船中で生涯を閉じた。
墓所は、細川通董の菩提寺である長川寺境内に位置している。また、晩年に在城したとされる鴨山城跡が隣接し、死者に対する崇敬の念が窺われる。本所は、四代後裔に当たる長府藩毛利家家老を務めた細川元純が正徳五年(一七一五)に建立したと伝えられている。本体石塔と玉垣など墓域の石質が異なっているが、細川元純が大きな節目回忌での建立とみられ、本体の保存状態も良好であり、市内でも有数の規模と風格を備えている。細川家の浅口地域における権力や岡山池田藩の支藩体制下に移ってからの墓制を合わせ知る上で、歴史上極めて貴重な史跡である。
浅口市教育委員会 浅口市文化財保護委員会
室町幕府の管領を務めた細川氏。宗家は京兆(けいちょう)家と呼ばれ、勝元など歴史を彩る武将を輩出した。京兆は右京太夫という官位に由来する。
様々な分家があり、細川藤孝の養子先と思われていた和泉守護家、真の養子先とされる淡路守護家、藤孝の子忠興が養子となった奥州家などがある。本日紹介するのは野州家。当主が下野守を名乗ったことに由来する。
細川通董は野州家庶流の生まれで、野州家の家督を継いだと考えられている。戒名の「前野州太守」が、野州家嫡流としての誇りを示している。
天文年間は尼子氏についていたが、永禄年間に毛利氏に属し、以後一貫して主家に尽くした。子の元通は毛利(穂井田)元清の娘を妻としており、元清の子秀元が長府藩主になるとその家臣となり、子孫は代々家老職を務めた。
通董の支配地域は備中国浅口郡である。その拠点となった城に登ることにしよう。

浅口市鴨方町鴨方、鴨方町深田、鴨方町本庄にまたがる鴨山に「鴨山城趾」がある。裏には「城主細川公之遺趾(自応永十四年至慶長五年)家臣之後裔建之」と刻まれている。主従の絆は、山よりも高く海よりも深い。

空に舞い上がったかのような眺望が得られ、鴨山城以前に通董が在城したという青佐山城、竜王山城が見える。人の動きがよく見え、浅口郡の掌握に適した立地と言えよう。
眺望はよいが、ここは山頂ではない。さらに登ると主郭がある。

写真奥の高まりは櫓台で、その向こうは巨大な堀切のような谷がある。さらに進むと北曲輪がある。行ってみよう。

北曲輪には「最高所曲輪」がある。標高166mと示されているが、主郭にある三角点は167.7mである。ただ曲輪群としては北曲輪のほうが優れている。
アクセスは、城の北側にある駐車場から城の南北を画する谷(堀切)へ向かうのがよいが、そこに至る道はけっこう狭い。駐車場の説明板には、城の歴史が記されている。
沿革
鴨山城は別名、加茂山城・石井山城・清滝山城・城山ともいう。応永14年(1407)細川満国が浅口分郡知行主として入郡以降、細川野洲家の拠点の城として浅口郡を約190 年間領知した。城主は8代の元通まで続くが、一時期城主不在の時があったようである。
永禄2年(1559)細川通董は毛利氏の配下にあり、7代目鴨山城城主として、伊予国の川之江から浅口郡に入っている。青佐山城に7年、竜王山城へ9年間居城する。天正3年(1575)鴨山城に入った頃、城の大改造を行なっている。
その後、8代城主の元通は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗軍側となり、長門国へ移り鴨山城は廃城となる。
参考文献 『鴨方町史』
平成27年3月 浅口歴史探訪会
続いて谷(堀切)にある説明板には、城の構造について記されている。
縄張り概要
標高167.7mに築城し、全長およそ400mの巨大な連郭式山城である。中央の堀切を境に、南の曲輪・北の曲輪に分かれている。城郭遺構から見て、北の曲輪の最高部が初期段階に縄張りされたようである。
7代城主の細川通董が浅口郡へ入り、天正3年(1575)鴨山城に移った頃大改造をしたとの記録がある。
北曲輪は削平して広げている。南の曲輪の最高部は、広さから想像して何らかの施設が存在していたようである。また、北の曲輪の大曲輪は腰曲輪を設え、堅固な構えにしている。
参考文献 『鴨方町史』
見所
1.堀切・大曲輪・腰曲輪・切岸・石積み・石垣曲尺・小曲輪
2.南の曲輪最先端の岩下には、江戸時代に彫られたと思われる磨崖仏がある。
平成27年3月 浅口歴史探訪会
せっかくだから摩崖仏も見学しておこう。

このまま山を下りると、鴨方藩の役所(御用場・陣屋)があった広場に出る。

浅口市鴨方町鴨方に「鴨山城主細川公顕彰碑」がある。背後に見えるのは、いま登っていた鴨山城である。
昭和61年(1986)に細川通董の四百回大遠忌の法要が行われ、その際に家臣之後裔清瀧会の会員の方々で建立したものである。1587年に亡くなった通董は、四百回忌を行う399年目(つまり数えで400年目)が1986年に当たっていたのだ。
この碑が顕彰する「細川公」とは、応永14年(1407)に浅口分郡知行主として入郡した初代細川満国から、二代持春、三代教春、四代政国、五代晴国、六代輝政、七代通董、八代元通を指している。野州家の歴代である。元通は慶長五年(1600)の関ヶ原敗戦で主家毛利氏とともにこの地を去った。
鴨方の地は、江戸期に鴨方藩池田氏が約200年間支配しているが、領主としての人気は細川通董が上回っているように思える。地元に密着した武将だからだろう。
名族としての誇りに賭けて領地を守り、生き残りを図った細川通董。主家毛利氏への忠義は一貫しており、信頼できる武将であった。家臣にとっても「この方のためなら頑張れる」と思わせる主君だったに違いない。

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