季節が春色に染められ、大地の重力も緩んだせいか浮き立つ思いがする。人生の春を迎え、さあ躍動の一年だ、と自らを鼓舞しているみなさんには申し訳ないが、紅葉の秋をお届けしたい。落葉樹も人生も落ちる前が美しい。





総社市槙谷(まきだに)に国指定名勝の「豪渓」がある。写真は11月半ば。休日に訪れた時は大渋滞で撤退、平日に再チャレンジして撮影に成功した。
国の名勝に指定されたのは大正12年である。同14年に最寄駅として「宍粟(しさわ)駅」が開業したが、読みにくさゆえか集客力アップのためか、昭和10年に「豪渓駅」に改称された。ただし、渓谷までは8kmの距離がある。駅に豪渓交通の白いタクシーが待機しているのは、そういうことだ。
どのような名勝なのか。宇垣武治編『沿線誌集成 第1輯』土谷大正堂書籍部(昭和2)に、興味深い記事があった。
溪に入らんとする左側に、豪溪の説明を建つ、曰く「豪溪は花崗石より成れる槇谷川の峡谷にして兩岸は絶壁又は石柱を成す天柱峯圭嶂盒子岩劔峯雲梯峯等は其の著しきものなり殊に盒子岩は東西に長く南北に短き長方形を呈して屹立し水平の節理發達せるを以て恰も箱を重ねたる觀を呈し重箱の稱あり、雲梯峯は屏風の如く屹立するも一方は梯形を成す其の溪谷は小にして河床には特に擧ぐべきものなきも三鈷潭の如き水平の岩盤上に水流の激する處亦西峰の峻峯と相俟ちて捨つべからざる風致あり峡谷の規模雄大ならずと雖花崗岩の垂直及水平節理能く發達し之に沿ひ風化浸蝕せられて削崖奇岩を成せるものの一標式たるのみならず小地域の内に於て變化多く蓋し中國地方には稀に見る名勝たり」とあり。
「雲梯峯」というのが、これではないか。槙谷川の左岸にある。屏風のように屹立して、手前は水平の節理が梯子のように見える。

面白いのは「天柱」と大きく刻まれた岩である。


習字のお手本になりそうな力強い文字である。どのような由来があるのか、説明板を読んでみよう。
天柱
この文字は、享和元年(一八〇一)に備前の国和気郡の武元登々庵が書し、石工二人が十四日かかって刻したものです。
武元登々庵(一七六八~一八一二)は漢詩人医者で名は質(ただし)、号は登々庵という。頼山陽の開いた塾で当時一流の文人と交流した。また書家としても有名です。
武元登々庵は当代一流の文人。頼山陽、菅茶山、田能村竹田、浦上春琴らと交流があり、医者としては眼科を専門としていた。遠祖の武元与兵衛正高は、宇喜多氏家臣明石全登の子景行の婿養子となり、和気郡吉永村に帰農したという。
岩に刻まれた能書「天柱」はお手本となり、遠く離れた別の岩にも刻まれた。吉備の中山に行ってみよう。


岡山市北区一宮の吉備中山(龍王山)北斜面に「天柱岩(てんちゅういわ)」がある。けっこうな急斜面だが、遊歩道が整備されている。
柱のように見えて、豪渓の雲梯峰のような奥行きがある。豪渓と同じく力強い字だ。いったいどのような謂れがあるのだろうか。
天柱岩
昔この岩は「ヌスト (盗人) 岩」とも呼ばれていたが、昭和9(1934)年に福田海の中山通幽が「天柱」の文字を刻んだことから、「天柱岩」と呼ばれるようになった。刻んだ文字は、豪渓にある武元登々庵の書いた文字を写し取ったものである。吉備津彦神社の絵図(1814年)には、この岩に「権現岩」の名が記されており、「備前州一宮密記」にある「龍王山の西八合目には、権現の神座と称する巨岩がある」という記述と一致する。この岩の下からは鎌倉時代に祭祀に用いられたと考えられる土師器片が発見されている。
吉備の中山を守る会
盗人岩とも権現岩とも呼ばれたようだが、昭和になって天柱岩となった。「天柱」の文字を刻んだ福田海(ふくでんかい)の中山通幽は、アーカイブス「魚獲りは罪深い!?」に登場している。日本最大の「浮島十三重石塔」を再建したのである。その頃は京阪神を中心に活動していたが、昭和二年に岡山に帰郷した。
そして昭和九年、古くから磐座として信仰されて岩に文字を刻み、結果、新たな価値を添えることとなった。翌十年には宍粟駅が豪渓駅へと改称された。おそらくこの時期に、豪渓の一大ブームがあったのであろう。

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