地名は土地に刻まれた記憶遺産であり、大切にしたい。本日紹介する場所は「兵庫県多可郡多可町中区」なのだが、古代には「播磨国多可郡那珂郷」であった。那珂郷は「中郷」とも書いた。平成の大合併前は「中町」、現在の多可町役場も近代の郡役所も今の中区中村町にあった。まさに地域のど真ん中なのである。


兵庫県多可郡多可町中区東山に「東山古墳群」がある。妙見山の山裾、南向きの斜面にポコポコと緑の山が並ぶ。それぞれに南に開口部があり、GDPの源である平野部の穀倉地帯を見守っている。
7世紀に古墳時代は終焉を迎える。中央集権的な国家創設に向けて準備が進められ、仏教が社会に浸透して信仰の在り方が変化していく。薄葬令が出され、やがて火葬が始まる。そんな時代に造営されたのが、東山古墳群であった。説明板を読んでみよう。
兵庫県指定文化財
東山古墳群
Higashiyama Tombs
古代多可郡の形成にとって、7世紀は大きな変革の時代でした。古代寺院多哥寺(たかでら)や古代の役所である多哥郡衙(評)の建設など、最新の土木・建築技術に加え、安坂(あさか)・城の堀(じょうのほり)遺跡出土の唐犂(からすき)などの最新式農具も導入され、平野部を中心とする開発が急速に進んだ時代です。この変革期を主導したのが、東山古墳群の被葬者たちです。
東山古墳群は、6世紀末から7世紀代に造られた16基の円墳で構成される古墳群です。このうち、5~8号を除く12基の古墳が整備されています。
平成8~11年に発掘調査が実施された結果、各古墳は、巨石を用いて造られた横穴式石室という埋葬施設を備えており、石室全長が10m以上ある古墳が5基あり、なかでも最初に造られた1号墳は兵庫県内最大級の規模をもっていることがわかりました。
背後にそびえる妙見山周辺には、200基を超える古墳が築かれていますが、その中でも、この東山古墳群は、南にひろがる平野部を見下ろす最適地にあり、大型古墳が集中して築かれていることから、当時の多可郡域(多可・西脇地域)の最有力者たちの古墳であると考えられます。
多哥寺は現在の量興寺(多可町中区天田)、郡衙も近くにあったと考えられている。東山古墳群から望むことのできる平野部は政治経済の中心地であり、その指導者たちは死後も地域を見守っているのであった。


奥のほうに大きな「東山1号墳」がある。説明板を読んでみよう。
東山1号墳
Higashiyama Tomb No.1
東山1号墳は、径約30m、高さ約7mで、墳丘の立ち上がりの周囲にはテラス・周溝が巡っています。古墳群内では最大の規模をもっています。
石室は左片袖式で、全長12.5m以上、玄室長6.25m、玄室幅2.8m、玄室高3.25mで、石室空間は兵庫県内最大級の規模を有しています。石室の床面には、おもに10cm以下の川原石を丁寧に敷きつめています。
後世の盗掘・攪乱のため、遺物の出土状況はよいとはいえませんが、数多くの土器類、大刀や鉄鏃をはじめとする武器・馬具類、装身具のガラス玉や耳環などが発見されています。なお、石室入口部では、高杯4点と提瓶(ていへい)2点が据えられており、当時の入り口の閉塞にかかる祭祀の跡がうかがえます。
造られたのは7世紀初頭で、東山古墳群築造の契機となった古墳であり、約100年近くも追葬が行われ続けたことがわかっています。
横穴式石室の利点、追葬が100年にわたって続けられたという。盟主の家族が葬られたのだろうか。この時代の典型的な古墳といえよう。


2番目に大きいのが古墳群入口近くにある「東山15号墳」である。
東山15号墳
Higashiyama Tomb No.15
東山15号墳は、径約25m、高さ約4.5mで、墳丘の立ち上がりの周囲にはテラス・周溝が巡り、東山1号墳に次ぐ規模をもっています。
石室は両袖式で全長12.4m、玄室長4.4m、玄室幅1.8m、玄室高2.4mで、義道の長さが玄室にくらべて2倍近く長くなっています。石室の床面には、20~30cmの川原石が敷きつめられています。
後世の盗掘・攪乱を受けていますが、数多くの土器類、大刀や鉄鏃をはじめとする武器・馬具類、装身具の耳環、木棺に使用された鉄釘などが発見されています。調査では、羨道と玄室の境部にて、木棺のかたわらに土師器の甕を数個据え、内部に大刀を携えた被葬者が埋葬されたことが明らかになりました。
造られた時期は、7世紀中頃と推定されます。
こちらもかなりの有力者のようだ。1号墳の次世代のリーダーか。この後、古墳は終焉を迎えていく。おそらく多哥寺を中心とした信仰に移行するのだろう。地域の基礎を築いたこのリーダーは、具体的に誰なのか。
いや実は分からないのだが、奈良文化財研究所の木簡庫によれば、平城京出土の木簡(天平九年三月卅日)に「播磨国多可郡那珂郷」「山直小弓」「針間直」の文字が見える。どうやらこの辺りには、「山直(やまのあたえ)」「針間直(はりまのあたえ)」という氏族がいたのかもしれない。国造クラスの一族らしい。
山直や針間直の一族の子孫はどうなったのだろう。私たちだって数代前になるとよく分からくなるから、今や誰の記憶からも消え去っているはずだ。記憶は失われても、古墳は栄光の時代を語り伝えている。

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