既得権益を打破する構造改革。うま味を享受してきた特権階級は激しく抵抗するだろうが、それに怯むことなく改革を断行せねばならない。民の暮らしを守り新しき世をつくるのだ。そんな気概を抱くのが大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する武将たちである。いつの世にも保守派と改革派の争いがある。
中世を近世へと変革させたのは、検地という構造改革であった。それまで土地の権利関係は複雑化し税制も統一されていなかった。これを一地一作人の原則で整理し、石高という指標を導入して全国一律の制度としたのである。世にいう太閤検地である。
これにより荘園は消滅し、公家や大寺社など中世を支えた勢力が衰える。ただし、徴税権を大名に一元化するという近世の中央集権は、税収の横取りに過ぎないのかもしれない。
この構造改革に危機感を感じたのは、大名の家中でも大身の有力武将であった。拡大した領地の経営を任され、旧来の地元勢力と折り合いをつけ中間マージンを得ながら上手くやっていたいた。そのうま味を奪われ、殿様から分け与えられる収入のみで経営を賄わなくてはならないのである。「いやいや、ここまでの大名になれたのは誰のおかげですか?」奉公には御恩。Win-Winの関係が大切ですよね、殿!

岡山市北区高松原古才(たかまつはらこさい)に「高松知行所跡」がある。
原古才は高松地区の主邑で、中央を松山往来が通過している。北区役所高松地域センターがあるのも高松中学校、高松農業高等学校があるのも、すべて原古才である。
この珍しい地名の由来は、お腹の大きな腹子地蔵にちなむとか、朝鮮語の「上陸」を意味するとか言われている。よく分からないが、古くから行政の中心だったことは確かだ。説明板を読んでみよう。
高松知行所跡
旗本花房氏の陣屋跡。宇喜多氏の家臣であった花房氏は、宇喜多直家とその子の秀家に仕えていましたが、その後、旗本となり、備中国都宇郡、賀陽郡のうちにおいて(岡山市北区高松・加茂地区、同南区妹尾、箕島、総社市阿部)8220石(のち6220石)の領主となりました。現在「館(やかた)」とよばれている所に陣屋を構え高松知行所とし、近隣の村々を支配しました。陣屋は幕末まで続きました。
岡山市
宇喜多氏に仕えていた花房(はなぶさ)氏は二人いて、花房助兵衛職秀(もとびで)(職之・もとゆき)と花房志摩守正成である。三代前を共有の先祖とする。職秀は宇喜多直家の命により元亀元年(1570)に荒神山城を築いて、美作攻略に従事した。その後はこの方面の経略を担当したと思われる。
宇喜多氏が直家から秀家の代になり、文禄三年(1594)から領地内で惣国検地が始まると、職秀は宇喜多氏のもとを離れた。徳川家康のとりなしで常陸佐竹氏に預けられ、関ヶ原で東軍で戦った後、備中高松に領地を与えられた。これが高松知行所である。
職秀が宇喜多氏を辞したのは、秀家が革新官僚長船紀伊守を重用したことに反発したとされるが、単に個人的な感情ではなく、背景には「領民に慕われた旗本家」で記したような分権か集権かの路線対立があったのであろう。
江戸後期の古賀侗庵『良将達徳鈔』巻之八には「豊太閤花房助兵衛罵詈(ばり)之言を咎め玉はさる事」というエピソードが紹介されている。
小田原征伐の秀吉が本陣で能を催して諸大名に見せていると、通りかかった花房助兵衛が「前には強敵を置ながら早々攻落す手立もなく陣中にて能はやしの様子たわけ物を武将とあほぐをかしさに」と大声で言ったというのだ。
それくらい直言できる武将だったのだろう。いっぽうで情には厚く、関ヶ原に敗れて八丈島に流された宇喜多秀家の旧恩を忘れず、毎年白米二十俵を送ったという。
ちなみに花房志摩守正成は、備中高松城水攻め後に高松城主となった武将である。水攻めを提案したのは黒田官兵衛ではなく正成だとも言われている。宇喜多秀家が惣国検地を断行し花房職秀の退去を招いたが、その数年後に再び家中で対立が生じる。
慶長五年(1600)初めに、集権化を進める秀家直属の中村家正(次郎兵衛)が大阪で襲撃される。これには家中の宿老が関与しており、対立構図は前年に発生した石田三成襲撃事件を思わせる。内政で高い実務能力を発揮する官僚と現場と駆け引きしながら施策を実施する武将との反目だろう。
花房正成も中村に反発した宿老の一人で、5月には宇喜多家を退去してしまう。これを庇護したのが徳川家康で、旗本に取り立てられ備中猿掛に知行所を置いた。子孫は遠州豊田、山名、周智三郡に領地を与えられ、豊田郡小山村に陣屋を置いたという。岡山市が文化財指定する「花房家史料」は、この家の子孫の方が寄贈したものである。その中には八丈島の秀家から正成に宛てた礼状もある。職秀や正成の厚情には救われる思いがする。

岡山市北区津寺に「榊原職直の津寺知行所跡」がある。
榊原氏と言えば徳川四天王の榊原康政だが、何か関係あるのだろうか。説明板を読んでみよう。
榊原職直(もとなお)の津寺知行所跡
前方の小高い場所は、榊原職直が構えた陣屋跡と伝えられています。
天正14年(1586)、職直は花房職之(もとゆき)の次男として生まれました。慶長4年(1599)、11歳の時に榊原康政の取り次ぎで家康の家来となり、この恩に報いるため榊原と改姓し、康政の養子となりました。
元和3年(1617)の父・職之の死後、加茂地区内に1,000石を分けてもらい、三本木に陣屋を 構えたことがこの知行所のはじまりです。
寛永11年(1634)職直は長崎奉行に就任し、出島の築造やキリシタン弾圧に努めましたが、寛永15年(1638)の島原の乱にて軍令違反を犯し、同年6月29日に免職・閉門の処分を受けました。
その後は許され、寛永19年(1642)には御先鉄砲頭(おさきてっぽうがしら)、正保3年(1646)には近江国水口(みなくち)城の城番を務めました。
(看板提案 三本木町内会)
岡山市
高松知行所の花房職之の子職直が榊原康政の養子となり、兄の職則からの分知を受け津寺知行所を開いたのである。子孫相次いで明治に至り、最後の藩主である榊原正敬(まさたか)子爵の婿養子となって家督を継承したのは、この旗本家出身の政和であった。こうしたつながりのもとは宇喜多騒動にある。宇喜多家を辞すことで失うものは大きかったはずだが、その決断によって家運が開けていったのである。

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