「急がば回れ」という警句を無視してどれほど痛い目に遭ってきたか。やはり、分岐点ではよくよく考えたほうがいい。人生だけでない。家の近くの狭い道は町との近道なのだが、通勤時間帯に逆方向から進入するとにっちもさっちもいかなくなる。少し遠回りでも流れに沿う方向から帰宅するのが賢明だ。「急がば回れ」その由来となったのがこの歌だ。
もののふの 矢橋の舟は 早くとも 急がばまはれ 瀬田の長橋
「もののふの」は「矢」に掛かる枕詞。「矢橋」は近江八景「矢橋帰帆」で知られた湊である。草津宿から大津宿へと向かう旅人は迷った。矢橋の渡しで対岸の大津に渡れば、瀬田唐橋経由の陸路よりずいぶん楽だ。しかし、風のために出航停止になるかもしれないし転覆の危険性さえある。やっぱり歩いたほうが結果的には早くつけるかも。急がば回れだ。
これに対して矢橋の業者は「勢多を廻れば三里の回り、ござれ矢橋の船に乗ろ」と宣伝していたというが、それはどうでもいい。急がば回れの由来となった歌は、永正十一年(1514)に成立した和歌集「雲玉和歌抄」には平安後期の歌人源俊頼が詠んだとあり、元和9年(1623)成立の「醒睡笑」には室町の連歌師宗長が詠んだとされている。

掛川市掛川に龍華院子角山公園に「掛川古城」がある。向こうに土塁が見える。
掛川城は、先日の記事「日本初の本格木造復元天守」でレポートした。美しく見事な近世城郭である。本日レポートするのは、その前身に位置付けられる中世山城である。説明板を読んでみよう。
掛川城と子角山(ねずみやま)
掛川城は今川氏の重臣であった朝比奈泰凞(やすひろ)により1500年ごろ子角山の地に築城されました(掛川古城)。
その後、1513年には龍頭山(現在の掛川城公園)に新たに築城されたため、子角山には建物が残っていませんが、本曲輪は現在の龍華院大猷院霊屋の位置にあったとされ、霊屋東側に残る大堀切(空堀)の跡に往時の面影が残っています。
戦国時代の1568年、掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻めるため、徳川家康は大軍を率いて掛川城を攻めましたが、その際子角山に掛川城攻略の本陣を置いたという説があります。
子角山は龍華院大猷院霊屋の西側にある尾根と小学校沿いに整備された遊歩道の先にある東側の尾根によって構成されており、現在では龍華院子角山公園として、両側の尾根を一体的に整備しています。
中世山城の見どころは、やはり堀切であろう。しかもここは大堀切だ。土塁の向こうを覗いてみよう。

この掛川古城は、冒頭で紹介した連歌師、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)とゆかりが深い。紀行文学の傑作にして貴重な史料『宗長手記』には、次のような記述がある。
大永二年五月、北地の旅行、越前国のしる人につきて、かへる山をしらねども、宇津の山をこえ、小夜の中山にいたりて、
このたびは又越ゆべしと思ふとも老の坂なり小夜の中山
掛川泰能(朝比奈備中守)享に逗留。このころ普請最中、外城のめぐり、七六百間堀をほり土居をつきあげ、凡本城とおなじ。この地岩土といふものにて、只館をつきあげたりともいふべし。城と外との間堀あり。冷々としてのぞくもいとあやふし。此城にて発句とて、
五月雨はくもゐの岸の柳かな
大永2年(1522)5月、北へと向かう越前の知り合いについて帰って来た。歌枕の鹿蒜(かへる)山は知らないが、宇津ノ谷峠を越え、小夜(さよ)の中山にやって来た。
小夜の中山をまた越えようと思うのだが、老ノ坂のような坂道で歳をとると身にこたえるわい。
朝比奈泰能(やすよし)公の屋敷に滞在した。この頃、城は普請の最中で、外周を固めようと1㎞以上もの堀と土塁を築き、本城と変わらぬくらいだ。ここの土地は岩盤が固く、屋敷を建てただけで完成すると言ってよい。本城と外城の間に堀があるが、険しくて覗くと怖いくらいだ。そこで一句。
五月雨が降る城を見上げると、土手の柳が雲に包まれているように霞んでいる。
ここに登場する堀切は、写真の大堀切とは違うらしい。掛川古城の丘陵は、東へと続き南へと回り込む。宗長が見たのは、この連なりが外城として整備されていた様子なのだろう。険しい堀とは、掛川市総合福祉センターの東にある切り通しとも考えられるようだ。
『宗長手記』の続きには「前備中守泰熈当国の事承りはじめ、此山を見たて築く…」とあり、泰能の父、朝比奈泰凞が掛川古城を築いたことが分かる。1500年(明応9年)ごろ子角山の地に築城されたとされる掛川古城だが、今の掛川城の地に1513(永正10)に新たに築城された。城が拡大して防衛力が一段と強化されたのかと思ったら、古城の地には家康の今川攻めで掛川城攻略の本陣が置かれた。大堀切は家康が管理していた頃の遺構らしい。
掛川古城を築いた朝比奈氏は守護大名今川氏の忠臣として掛川を守った。泰熈・泰能・泰朝の三代で、泰朝は主君今川氏真の没落後も離反することはなかったらしい。
宗長が「急がば回れ」の言い出しっぺかどうかは分からないが、彼の旅日記のおかげで遠州掛川の城普請が鮮やかに見えてくる。総石垣の城普請は大河ドラマでも描かれるが、鉄砲伝来以前の城造りはなかなかイメージが湧かない。地形を変えるような大土木工事に、宗長は時代の息吹を感じ取ったのだろう。

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