3代将軍家光の側室宝樹院は4代将軍となる家綱を生んだ。おかげで宝樹院の弟は大名に取り立てられ、子孫連綿幕末(維新時は伊勢長島藩主)に至った。同じく家光の側室桂昌院は5代将軍となる綱吉を生んだ。おかげで桂昌院の弟は大名に取り立てられ、子孫連綿幕末(維新時は丹後宮津藩主)に至った。縁故就職ほどありがたいものはない。

掛川市上西郷の構江公民館に「二代将軍徳川秀忠公の生母西郷ノ局生誕の地」「厳父戸塚五郎太夫忠春の居館跡」と示された標柱がある。
昔の大河『徳川家康』では竹下景子、近年の『どうする家康』では広瀬アリスが演じた西郷ノ局。従一位を追贈されるなど、将軍の生母として格別の扱いを受けている。どのような家に生まれたのか、説明板を読んでみよう。
西郷ノ局の生誕地
二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛と言い、父、戸塚五郎太夫忠春、母、おさい(おさだ)の娘として構江屋敷に生まれました。
此の地は、構江段と言い、斎宮を中心に、北西に、弓矢八幡宮、南東に、若宮八幡宮、を祀ってあります。土塁・堀をめぐらせ、東門、三ヶ月堀、殿屋敷と伝えられています。
戸塚五郎太夫忠春は、今川氏に仕えた西郷十八士の一人で、構江に住んだ人です。
天文二十三年、忠春は大森の戦で討死し、おさいは、服部平太夫と再婚して殿屋敷に住みました。
図書、図書下の地名あり
服部平太夫正尚の弟、青山図書介の屋敷跡で、壱万石を賜わり、江戸詰めとなり幕府の要職についた、青山図書介の若い時の屋敷跡とみられます。
法泉寺七世心翁永伝和尚は、忠春の次男で、徳川家康が、江戸城鎮護の裏鬼門に拾万石の格式を与えられ、西郷ノ局、父忠春を中興の開基として、牛込に法泉寺を開き、後、天龍寺と改名され現存されております。
お愛が、浜松城に家康の側室として上った頃、五社大明神を城内にお祀りしたいと申し出、許されて、五社様を分神する事になり、当日真夜、タイマツの灯が町まで連なったと、古老達の間に語りつがれております。
構江区
○出典 おくにの古文書 正保二年(一六四五)
観音寺古文書 慶安二年(一六四九)
天龍寺記
ふるさと掛川(第一・三・五・八集)
古老達の伝承
平成二十八年九月吉日
掛川市
周辺情報は多いがこの屋敷にまつわるストーリーが少ないので、今一つ理解しにくい。要は、今川氏に仕えた地侍で、構江屋敷に住んでいた戸塚五郎太夫忠春の娘ということだ。

公民館の東側に「斎宮様」と呼ばれる小さなお宮がある。西郷の局とどのような関係があるのか、説明板を読んでみよう。
斎宮(いつきのみや)様の由来
この斎宮様は地域の人々の口伝や、掛川誌稿その他の文献により[西郷斎宮故宅]の屋敷跡にあった屋敷神であります。戸塚五郎大夫忠春の娘として生まれた「お愛の方」は徳川家康に召されて側室となりました。
天正七年四月七日、家康公の第三子の長丸君(後の二代将軍秀忠公)を産まれると「西郷の局」となり、その頃に戴いた屋敷と云われております。この斎宮様を何故に祀ったかは判りませんが、色々の文献には[西郷斎宮故宅]と書かれています。
なおこの屋敷は「殿屋敷」とも「構え」とも呼ばれ、周辺には「圖書屋敷・東門・三ヶ月堀」などの古地名が残っております。
不思議なことに昔から葬列はこの前を通ると祟りがあり災難があると恐れられて、現在に至るも葬儀は前を通りません。これは西郷屋敷や斎宮が土地の人々から尊敬され、不浄なものは避けて通った名残と思います。
この習慣は現在に於ても受け継がれ、なお毎月六日には「月祀り」のお念仏が、また九月二十三日には「年祀り」として読経供養が区民により執行されております。
なお付近には「若宮様・八幡様」の宮跡が点在しております。
平成六年九月十五日 敬老の日に之を建つ
構江段住人
祟りが今も信じられている点は興味深いが、それよりも重要なことが記されている。この屋敷跡は「西郷の局」が生まれた場所ではなく、秀忠を生んでから「いただいた」屋敷だという。そして「西郷斎宮故宅」と呼ばれていたともいう。上西郷にある斎宮ということか。西郷斎宮という人の家だったということか。よく分からない。

掛川市掛川の龍華院(りゅうげいん)境内(掛川古城跡)に、生誕四七〇年記念「西郷の局」御休息処石碑がある。
御休息処を記念する石碑はあまり聞かないが、どのようなゆかりがあるのか、説明板を読んでみよう。
寶臺院西郷の局「お愛さま」 年表
一五五二年(天文二一年)一歳 お愛 三月三日 掛川市上西郷(構江)で誕生
一五五四年(天文二三年)三歲 父 戸塚忠春 駿河・刈屋川の合戦で戦死
一五五六年(弘治二年)五歳 母 貞はお愛を連れて 東三河の実家に戻る
一五六〇年(永禄三年)九歳 桶狭間の戦いで 今川義元戦死
一五六一年(永禄四年)十歳 徳川家康の家臣の服部正尚と貞が再婚し お愛は服部家の養女となる
一五六八年(永禄十一年)十七歳 母の実家 従兄弟の西郷義勝の後妻となり 重勝を育てその後娘が誕生
一五七〇年(元亀元年)十九歳 次男勝忠が誕生
一五七一年(元亀二年)二十歳 愛知県竹広の戦いで夫義勝戦死
一五七八年(天正六年)二十七歳 家康の側室 西郷の局となる
一五七九年(天正七年)二十八歲 四月七日 三男秀忠誕生
一五八〇年(天正八年)二十九歳 九月十日 四男忠吉誕生
一五八六年(天正十四年)三十五歳 徳川家康 西郷の局と共に駿府城へ移る
一五八九年(天正十七年)三十八歳 西郷の局五月十九日駿府城にて逝去 五月二十四日駿府・龍泉寺で葬儀
一六〇五年(慶長十年)没後十六年 三男秀忠 徳川第二代将軍(征夷大将軍)となる
一六二八年(寛永五年)没後三十九年 将軍秀忠 駿府にて母西郷の局の大法要を行い 龍泉寺の寺名を金米山寶臺院龍泉寺の院号を授け 母に女人最高の「従一位」を追贈して「寶臺院殿一品大夫人松誉貞樹大禅定尼」と改める
西郷の局と掛川古城とのゆかりは分からない。ただ、古城跡には孫で三代将軍家光を祀る龍華院大猷院霊屋(たいゆういんおたまや)があり、おばあちゃんが孫を優しく見守るというコンセプトが石碑に込められているらしい。
西郷の局のご生涯について、時系列で明示され大変分かりやすい。しかし、局の前半生については同時代の史料でほとんど確認できず、江戸中後期になって語られるようになったらしい。以下、郷土史家の中山正清氏の論に拠って情報を整理してみよう。
結論から先に述べると、ここ構江屋敷は西郷氏を名乗っていた石谷(いしがや)氏の屋敷で、西郷ノ局が側室になった後に家康から賜り、それを預かったのが局の父である五郎太夫忠春であった。そして、斎宮様はもともと屋敷神として祀られていたが、この屋敷の主と局の父が「西郷斎宮」であったと信じられてから「斎宮様」として信仰されたとのことだ。
したがって、ここは西郷ノ局の生誕地ではないことになる。
なぜ、このようなことになったのか。「西郷斎宮」の西郷は石谷氏とは別系統の三河西郷氏で、斎宮はお宮の名称ではなく「いつき」と読む百官名である。事実、江戸時代に大身旗本であった西郷員総(かずふさ)の百官名は「斎宮」である。上記年表に登場する西郷義勝の後裔である西郷氏と西郷ノ局とのゆかりが18世紀になって編纂物に登場するようになる。
同じく年表中の服部正尚の後裔は蓑氏(蓑笠之助)を名乗り、やはり18世紀になって西郷ノ局とのゆかりが記されるようになった。いっぽう局の実家である戸塚氏では古い記録が失われていたらしく、『寛政重修諸家譜』では「寛永系図、忠春一代を脱す。今西郷系図等に左証あるをもつてこれを補ふ。」とある。
西郷という地名、二系統の西郷氏、屋敷神と斎宮という百官名。様々な情報が錯綜して、「西郷ノ局生誕地」と信じられるようになったのだろう。誤解の元は何か?
考えられるのは三河西郷氏の上昇志向である。江戸前期には大名となったこともあったが、将軍綱吉の不興を買って領地半減の憂き目に遭っていた。冒頭のような例もあるならと、西郷つながりで将軍家とのゆかりを主張した。系図詐称は決して珍しいことではない。
結局、西郷氏のねらう縁故による家格上昇は実現しなかったが、西郷ノ局の生涯にはストーリーができた。シンデレラストーリーで人々を楽しませてくれたことに、未来からささやかな感謝を申し述べたい。

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