桃太郎伝説のモチーフとなったのは、四道将軍の一人、西道に派遣された吉備津彦命が戎夷(ひな)を平らげたことである。『日本書紀』崇神紀十年条から十一年条にかけて記されているが、平定した敵の名はここにない。ずっと後、六十年条に「出雲振根(いずものふるね)」を誅したとあるだけだ。
では西道で倒した敵は何者なのか。よく知られているのは、吉備津神社が伝える「温羅(うら)」。百済からやってきたという鬼神である。本日の史跡に関係するのは、JR伯備線の石蟹駅のある石蟹(いしが)の地名由来伝説となっている「蟹梟帥(かにたける)」である。石窟に居住する賊だったという。

岡山県都窪郡早島町早島に「鶴崎神社」が鎮座し、大吉備津彦命荒魂(オホキビツヒコノミコトアラミタマ)を御祭神としている。吉備津彦命のことだ。
本殿の傍に注連縄の張られた石が置かれている。なんとこの石でキビツヒコが休息されたのだという。腰掛石は何度も紹介してきたが、菅原道真や後醍醐天皇など実在の人物ゆかりの石だった。しかし今回は神話上の人物である。いったいどんな由来があるのか、説明板を読んでみよう。
吉備津彦命「休息石」
当社に伝わる賀陽(かや)氏の古書によると、「ご祭神の吉備津彦命はこの地が余りにも絶景であったため、お気に召して度々訪れた。その際には、御本殿の場所にあった丁度良い自然の岩石を常に仮の御座として、御休息になられた。
吉備津彦命が亡くなられた後に、浦人達はその御尊徳を慕って、彦命の座られていた岩石の周囲に注連縄を引き廻して祭壇を設け、吉備津神社の社家賀陽氏に依頼して年々祭を行った。
やがて、岩上に小さな神社を建立し、賀陽氏が御崎(おんざき)大明神と命名した。その後数度にわたり社殿を改築して、現在の御本殿となった。」と記されている。
平成二十年、社殿建設の基礎工事の際、「賀陽氏古書」に記されている通りの場所である御本殿前の土中から「休息石」が出土したため、貴重な歴史遺産としてここに安置するものである。
当時、眼前は海原だったのである。陽光に煌めく水面を絶景と言わずして何と言おう。ただし、キビツヒコは物見遊山に訪れたのではない。全国平定という崇高な使命を負っていたのだ。
神社の由緒を記した説明板には、「当時の有力な豪族であった蟹梟帥(温羅の一族)を征伐して、この国を平定された。」とある。まつろわぬ者を懲らしめた後に、ここでしばしの休息をとったのであろう。
隣の本殿も貴重な建物だという。説明板を読んでみよう。
町指定重要文化財
建造物 鶴崎神社本殿(令和2年3月13日指定)
当社本殿の創建年代は不明であり、天文4年(1535)の修理記録に見えるのが最古である。現在の本殿は、享保4年(1719)9月に再建されたものであり、明治27年(1894)に拝殿等の改築に伴い後方に移設し、さらに平成19年(2007)の拝殿改築に伴いさらに後方に移設した。
本殿は塩飽大工の作であり、建築様式は木造平屋建て、入母屋造、銅板葺で、比較的規模も大きく、屋根・軸部・脚部の均整が取れている。屋根は正面向拝上部に縋破風(すがるはふ)を付けるのみで古来の構成を保っている。軒も装飾(彫物)が少ない江戸中期以前の古い様式をよく残している。斗栱(ときょう)では軒回りに唐草を、縁の支えに天竺様を取り入れ、実直な中に華やかさを加える抑制のきいた折衷には好感が持てる。
享保4年(1719)再建という年代に合致した神社建築本来の意匠を保つ時代の優れた基本構想と意匠を持つ神社建築である。
早島町教育委員会
端にして要を得た見事な表現で建物の特徴を説明しているようだが、勉強不足のため具体的にはよく分からない。ただ塩飽大工の作という点には注目しておきたい。
塩飽大工は長い歴史で培った造船技術が基礎となり、宮大工として各地に足跡を残している。善通寺五重塔や備中国分寺五重塔は代表作として知られている。
キビツヒコが絶景を愛でた腰掛石の傍に、塩飽大工の傑作が建つ。瀬戸内の魅力がいっそう深まる風景と言えよう。

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