畝状竪堀と三重堀切

運転支援システムは白線を検知し、それに沿って走ろうとする。私たちも路側帯があれば、その内側を歩こうとする。ラインが車や人を誘導しているのだ。

山城を攻めてくる敵もまた同じで、凹部か凸部のどちらか、つまりラインに沿って進もうとし、凹凸を繰り返す動きはしない。そう考えると、畝状竪堀はよくできている。山城の見どころの一つである。

岡山市北区足守と大井の境に「宮路山城跡」がある。写真は主郭の北辺を守る土塁である。小さな祠があったようだが今は壊れてしまい、訪れる人もいないようだ。

この山城の魅力は、大胆な造りで、何が何でも守ろうとする気概が感じられることだ。南東部に進むと畝状竪堀を見ることができる。

これほど高低差の大きな畝状竪堀は、篠向(ささぶき)城跡で見て以来だ。めったにお目にかかれない貴重な遺構である。畝状竪堀そのものは珍しくないが、その多くは草や倒木に埋もれて全体像がつかみにくい。見学時には立体的に見えても、写真ではウネウネが感じられないことも多い。

この城跡でもっとも分かりやすく一番迫力を感じるのは、北に続く尾根を遮断する三重堀切である。

北斜面で日当たりがよくないためか、下草があまり生えておらず、遺構が確認しやすい。少々草が生えても十分確認できるくらい深く抉られた堀切が整然と3本並んでいるのだ。

これほどまでに防御を固めれば、少々の攻撃ではびくともしないだろう。難攻不落の名城と評価したい。しかし、実際にはすぐに落城したようだ。どういうことだろうか。

時は天正十年(1582)、秀吉は毛利氏との決戦に臨もうとしていた。信長の実子於次丸秀勝とともにまず入ったのが、宇喜多氏の鍛冶山城である。宮路山城とは足守川をはさんで向かい合っている。有名な軍記物『中国兵乱記』第四巻「織田御次丸羽柴秀吉備中宮路山城攻之事」を読んでみよう。

同年三月十五日、織田御次丸・羽柴筑前守秀吉は備前一宮に在陣、同左衛門秀長、板倉郷鞍山近く峰々平等に軍勢充満仕たり。同十六日に鍛冶屋山城へ御次丸秀吉入城。同日より乃美四郎元信が守上足守村宮路山城を攻んと芸州陣所の通路をば、以数万騎近山峰谷を取切絶通路一時に攻落さんと惣攻にす。城内の矢倉狭間より弓鉄砲を射出し、堅固に相抱、遂防戦処に、秀吉より宇喜多家臣信原内蔵允を以て、城内へ和談の術様々有之、穢多が曲輪の大将船木藤左衛門遂密通、扱の品々取成し、宮路山城を宇喜多方へ相渡し、乃美四郎は備後国居城へ引籠る。藤左衛門は宇喜多備へ駈込み、残る城々を攻給ふ。案内者仕ける穢多が要害一番に降参仕れば、秀吉武威広大に成給ふ。清水中島申すは、失武威乃美四郎は浦兵部宗勝が男子なれば、晴々敷可遂防戦と頼母敷存ずる処に、親に不似未練の働也。暫時の命を惜みて勇士の道を失ふ、浅間敷所存也と。

(天正十年=1582)三月十五日、羽柴秀勝(信長の実子、秀吉の養子)・羽柴秀吉は備前一宮に在陣、羽柴秀長は板倉郷鼓山近く峰々平等に軍勢を展開していた。同十六日に鍛冶屋山城に秀勝・秀吉が入った。同日より乃美元信が守る上足守村の宮路山城を奪うため、数万騎で近辺の山や谷を埋めて毛利方の進路を断ち、一気に攻め落とそうと総攻撃を敢行した。城内の矢狭間から弓や鉄砲で攻撃して堅固に守り、防戦したかに見えたが、秀吉は宇喜多氏家臣の延原内蔵允に城内に向けて様々に和談の働きかけを行った。宮路山城の穢多が曲輪を守る船木藤左衛門が秀吉方に密通、今後の動きを取り決めて、城を宇喜多方に引き渡した。乃美は備後の居城に退去し、船木は宇喜多側に駆け込んだので、残る城を攻めた。一番に降参した者が先導役を務め、秀吉の武威は大いに高まった。清水や中島が言うには、武威を失った乃美元信は、勇将浦宗勝の子だから晴々しく防戦できるだろうと頼もしく思っていたが、親に似合わず残念な働きであった。少しの命を惜しんで勇士の名を失ってしまった。浅ましい所存である。

さすがは秀吉、戦わずして城を落としている。謀略というのは卑怯に見えて、実に人道的で経済的なのだ。戦っていないから、宮路山城の防御施設が本当に有効かどうかは分からない。それでも、山城とは何かを今に伝える典型例として高く評価したい。

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