ねねの実家が備後で持っていた山城⁉

木下藤吉郎の嫁さんを何と呼ぶか。そんなの常識に思えて、これが意外に難しい。今やってる大河「豊臣兄弟!」では「寧々(ねね)」としている。「真田丸」では「寧(ねい)」、「軍師官兵衛」では「おね」であった。

その北政所、高台院ゆかりの山城が尾張ではなく、備後にあるというので行ってみた。

府中市土生町(はぶちょう)と用土町(ようどちょう)の境に「渕上城跡」がある。

府中盆地を貫流する芦田川の右岸にある丘陵を加工した山城である。それほど高くはないが、巨大な土塁と堀切を設けた大胆な造りで、進入許すまじという強い意志が感じられる。

室町時代以降の山陽道は、神辺から、郷分、山手、津之郷、赤坂を通過して松永へと通じていたが、古代山陽道は府中へと向かっていたという。JR福塩線のように内陸部へと向かう道もあっただろう。府中盆地における人々の動向を把握できる立地だった。

いったいどのような武将が在城していたのだろうか。説明板を読んでみよう。

渕上城(土生城)史跡
杉本氏
建久三年(一一九三)源頼朝は恒武天皇の後裔、相州三浦郡帛笠城主杉本又五郎の二男信永に土生の庄を賜わり居城し延元元年(一三三六)足利尊氏により落城するまで一四四年間杉本氏六代まで続く。
杉原氏
建武三年(一三三七)足利尊氏は新田義貞に敗れて九州に逃れたが、多々良浜の戦いに勝ち勢力を挽回することが出来た。尊氏は杉原信平、為平の兄弟に西国無比の無勇であると称讃し、芦田、品治両郡十八か村を賜わりここに居城する。
杉原四郎義恒のとき同族の府中八尾城主と不和になり渕上城を囲まれ義恒は討死し七郎左衛門は丹州に逃れ、後、尾張に移り住む。
木下藤吉郎、後の秀吉が一目惚れした北の政台「ねね」はこの七郎左衛門の曽々孫として渕上城ゆかりの人であるとわれています。
豊田氏
元亀二年(一五七一年)豊田右京進元利は毛利元就から芦田郡と御調郡三千町歩を賜わり居城する。豊臣方にあった元利は小早川秀秋が徳川方に寝返ったため形勢は一変、敗走の止むなきに至り、一族郎党よく奮戦するも全滅しました。元利の子元明、元良の兄弟はかろうじて渕上城に帰着したが、せんさくが厳しく城に捨て高木村に帰農する。
杉本氏・杉原氏・豊田氏の城主合わせて四百年間芦田郡、品治郡、御調郡の守護の居城としての城趾跡です。芦田川右岸道路よりに井戸も現存しています。
一九九四年
土生町郷土史会史跡保存及び環境保護委員会

ここには、杉本氏、杉原氏、豊田氏の三氏が登場する。このうち、鎌倉御家人の杉原氏、毛利勢の一員豊田氏については、よく分からない。

確実に渕上城にいたのは杉原氏である。備後では有力な国人領主で、八尾山(やつおやま)城の惣領家、鷲尾山城の木梨杉原氏、山手銀山城の山手杉原氏がいた。備後叢書所収『備後古城記』には、次のように記されている。

土生村
淵上城
杉原民部太輔元經 天文年中。
同七郞左衛門尉經珍
同宮內太輔廣盛 文禄二年落城。(註の「文禄二年」は誤なり、恐らく「永禄二年」なるへし。)
同又四郎

どうやら渕上城は、木梨杉原家の北辺の守りとして機能していたようだ。そう考えると杉原四郎義恒の代に淵上城が落城し、七郎左衛門が丹州から尾張へと移り住み、北政所の実家杉原氏となった、というのは何なのだろう。

江戸時代後期の地誌『西備名区』巻五十葦田郡「土生村」には、次のような記述がある。淵上城と杉原氏代々を解説した部分である

同 七郎左衛門常義
同 又四郎義恒 一作義常
八尾城主と不和に及び、八尾より討手来り攻囲む。又四郎討死し七左衛門出城して丹州に走り、後尾州に移ると聞ゆ。
按に。尾州にあって太閤に仕へし杉原は、伯耆守光平が後胤なり。長房か祖父十郎兵衛尉家利か父祖の世より尾張の国の住人とは成りてけり。家利一男六女を設く。嫡子七郎左衛門尉家次は伯耆守長房か父なり。姉は浅野又左衛門尉長勝が妻なり。(一説に妹なりと云。長勝は弾正大弼長政か父也。)妹は杉原入道道松か妻にて、豊臣太閤家の政所の御母公なり。家次所縁に付て秀吉の家にしたしかりしかは、彼家に仕へて天正十一年九月九日、五十四歳にて死す云々藩翰譜にみへたり。是を以てみれは時代は相応すれども其人の名字応せす、いつれ光平の子孫なれは因みはありぬべし。光平の家筋は其子胤平は相模入道に怒られて、本州なれば備後に遁れ隠る。舎弟下総守は新田に属して子孫ありとも聞へず。胤平、備後に帰り来り、子孫備後にあれば尾張杉原はいつれにも備後より移りしに違ひはあらじ。家利が祖父とは此七郎左衛門にや、又八尾杉原、是、杉原本家本郷と云へり。此家より丹州へ移りしとの説もあれば、何れ国同ふして同姓同名なれば、二つの内に虚実あるべし。
杉原宮内少輔廣盛
一本古城記に。永禄年中、有地元盛の為に没落すと云。
按に。廣盛は信平より九世の主にして、木梨鷲(尾)城に居す。当城は七郎左衛門退去の後、家士などにて守らせしなるへし。 然るを有地追ひ落して押領せしにや、いふかし。

又四郎義恒は惣領家との内紛に敗れ討死、七郎左衛門常義は丹州に逃れ、後に尾張へと移ったという。この七郎左衛門を祖父とするのが家利、その嫡子が家次、是を父とするのが長房、その妹は北政所の母だとしている。系図にすれば、七郎左衛門-〇-家利-杉原入道道松が妻(朝日殿)-北政所となろう。説明板の言う「曽々孫」とは、こういうことだ。

それにしてもこの杉原家、胤平という先祖は相模入道こと北条高時に怒られて備後に逃げてきたという。逃げてきた場所でも勢力を築くことができるのだから、才覚と胆力のある人が続いたのだろう。

丹州に移ったのは惣領家ではないかという説も紹介し、「二つの内に虚実あるべし」と言っているが、そもそも真実があるのか大いに疑問である。

ただ渕上城が杉原廣盛の代(永禄年間あるいは永禄二年)に、有地元盛の攻撃により落城したというのは史実を反映しているのではないか。あの「相方城」を築いた有地元盛には、なかなか勝てないだろう。

しかし話は面白いのがいいに決まっている。寧々の実家が備後で城を持っていた。逃れ逃れて尾張で身代を築き、運命の人秀吉と出逢う。歴史は想像力の産物なのかもしれない。

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